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第十章 白霧山の彼方へ
第十三話 失われし名
ジントは一人、焚き火の前に置かれた小さな岩へ腰を下ろしていた。
肩から毛布を羽織り、胸元でぎゅっと握り締める。
時折吹き抜ける風が黒い髪を揺らした。
火属性の結界のお陰だろう。
寝床周辺は風も多少遮られており、冷え込む山頂の中では驚くほど温かかった。
ふとジントは空を見上げる。
先ほどよりも高い位置へ昇った月。
白く柔らかな光が、静かに山頂を照らしている。
その光に導かれるように、ジントは石碑へ視線を向けた。
昼間に見つけた古びた石碑。
苔に覆われ、長い年月をそこで過ごしてきたもの。
その一番上。
月明かりを受けて淡く浮かび上がる、丸い月の紋章。
「……」
ジントは、なぜかその紋章から目を離せなかった。
そして自分の荷物の中にある一冊の本を思い出した。
鞄から取り出す。
『月蝕記』
黒い表紙。
そこへ描かれた、銀色の月の紋章。
石碑に刻まれたものと、同じ形。
ジントはそっと指先でそれをなぞる。
冷たい感触。
その瞬間だった。
ふわり。
表紙が、淡い銀色の光を帯びる。
「……!」
ジントは息を呑んだ。
何も描かれていなかった表紙の余白へ、ゆっくりと文字が浮かび上がっていく。
一文字ずつ。
まるで誰かが、そこへ静かに書き記しているように。
『失われし名、その記憶を辿れ』
「…………」
失われし、名。
その文字を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
頭のどこかで、誰かの声が聞こえたす気がする。
けれど掴もうとした瞬間、霧のように消えてしまう。
「……なんなんだろう……」
小さく呟く。
月明かりが黒い表紙を静かに照らしていた。
山頂を吹き抜ける夜風は冷たい。
それなのにジントの指先だけが、微かに熱を持っている気がした。
「……ジント?」
不意に後ろから声がした。
振り返ると次の夜番へ交代するハヤトが立っていた。
肩へ羽織った外套が夜風に揺れている。
「そろそろ交替の時間だぞ」
「あ……うん」
ジントは少し迷った後、手元の本へ視線を落とした。
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「ハヤト、ちょっと見てほしいものがあるんだ」
「?」
ハヤトはジントの隣へ腰を下ろす。
ジントは本を差し出した。
「今、ここに突然文字が現れたんだ」
ハヤトは本を手に取り、慎重に表紙を眺める。
そして。
「……何もないな」
「え……?」
ジントも慌てて覗き込む。
先ほどまで、確かに文字が浮かび上がっていた場所。
そこにはもう、何も残っていなかった。
ただ静かな黒い表紙だけが、月明かりを反射している。
「そんな……確かに見えたのに……」
戸惑うジント。
ジントは今起こった出来事を静かに話し始めた。
石碑の紋章を見て月蝕記を思い出したこと。
本へ文字が浮かび上がったこと。
そして
『失われし名、その記憶を辿れ』
という言葉。
話を聞き終えたハヤトは、考え込むように視線を落とした。
「……俺も、同じ本を持っている」
「え?」
ジントが顔を上げる。
ハヤトは荷物の中を探り、一冊の本を取り出した。
黒い表紙。
銀色の月の紋章。
見た目はジントの持つ『月蝕記』とほとんど同じだった。
けれどよく見ると、月の紋章の細かな意匠が僅かに違っていた。
「これ……」
ジントが目を見開く。
「教会の地下禁書庫から持ち出したものだ」
さらりと言うハヤト。
ジントが固まる。
「え……」
「正確には、勝手に借りてきた」
「それ盗んだって言うんじゃ……」
「返す予定はある」
ハヤトは真顔だった。
ジントはなんとも言えない顔になる。
だがハヤトはすぐ、真剣な表情へ戻った。
「禁書庫の最奥に封印されていた。
月蝕の子について調べる中で見つけたんだ」
ジントは恐る恐る、ハヤトの持つ『月蝕記』へ触れてみる。
けれど
「……何も感じない」
ぽつりと呟いた。
冷たい紙の感触。
ただそれだけだった。
先ほど自分の本へ触れた時のような、脈打つような感覚も。
胸の奥を揺らす何かも。
一切感じない。
ハヤトの瞳が静かに細められる。
「同じ本に見えるのに、反応が違う……」
低く呟く。
月明かりが二冊の『月蝕記』を照らしていた。
「どういう経緯で、この本が教会へ保管されていたのか……」
ハヤトは腕を組み本に目を落とす。
「そして、なぜジントの本だけが反応するのか……」
しばらく沈黙した後。
「やはり、まだ知らないことが多すぎるな」
そう静かに呟いた。
ジントも黙ったまま自分の『月蝕記』を見つめる。
『失われし名、その記憶を辿れ』
その言葉だけが、胸の奥へ静かに残り続けていた。
遠くで風が鳴る。
空には、全てを知っているかのような顔をした白い月が、静かに浮かんでいた。
コメント
1件
読み終わりました……第12話、すごく良かったです🥀 月蝕記に突然浮かんだ「失われし名、その記憶を辿れ」っていう言葉、すごく胸に刺さりました。ジントだけが反応して、ハヤトの本には何も起こらないっていう対比が、なんだか切なくて…。ジントが「確かに見えたのに」って戸惑う気持ち、すごくわかる気がします。 それと、ハヤトが「返す予定はある」って真顔で言うところ、ちょっと笑っちゃいました😂 でも真面目な雰囲気を壊さない絶妙なタイミングで、好きです。 続き、ジントの記憶がどこへ辿り着くのか、すごく気になります…🌙