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🕯️綴倉(つづらぐら)
「……この部屋、鍵閉めて出たはずなのに」
その扉の中にあったのは、今朝まで住んでいた自分の部屋と寸分違わぬ空間だった。
ベッドの掛け布団のヨレ、机に置いたマグカップ、
すり減ったスリッパ──すべて、同じだった。
ただひとつだけ、“何か”が足りない。
それが、なんなのか思い出せない。
駅名は綴倉(つづらぐら)。
降り立ったホームの先に広がるのは、無数の“倉庫”が整然と並ぶ町。
どれも白っぽい鉄製のシャッターに覆われており、
扉には番号も名前もない。
通りには誰ひとりおらず、
ただ一定の間隔で**「開かず倉庫 管理局」と記された案内板**が立っている。
この街に足を踏み入れたのは、
五十嵐 翠(いがらし・みどり)、24歳の事務職。
くすんだオリーブ色のロングコートに、
黒のタートルネックとワイドパンツ。
髪は肩下までの黒髪を束ね、銀の縁取りの丸メガネが彼女の静かな目元を縁取っている。
翠は何かに導かれるように、まっすぐひとつの倉庫の前へとたどり着いた。
それはほかのシャッターよりわずかに古く、
開閉の取っ手にだけ、自分の名字が手書きで刻まれていた。
鍵など使っていないのに、
スルリとシャッターが持ち上がる。
中には──自分の部屋。
ただし、半年前のままの部屋だった。
亡くなった祖母から譲り受けた、古びた和ダンス。
今の部屋にはもう置いていない。
「……なんでこれがここに」
彼女はおそるおそる、タンスの引き出しを開けた。
中には、見覚えのある日記帳が一冊。
それは、日記というより**“記憶のメモ”**だった。
自分がどんな言葉を失ったか、何を話せなくなったかを記録していた。
・「また明日」って言えなかった日:10
・「ただいま」を誰にも聞かれなかった日:17
・「大丈夫じゃない」と言いたかった日:23
ページの最後に、こんな一文があった。
「これを見つけたら、部屋ごと置いていっていい」 「持っていくのは、言えなかったことだけでいい」
部屋の奥で、小さくカチリと音がした。
見れば、壁の一部が書棚のように開いており、奥にもう一つ扉がある。
そこに掲げられていた札には、こう書かれていた。
「未提出書類:声の欠片」 「提出者:イガラシ ミドリ」
翠はしばらくそれを見つめ、
扉を閉めた。
日記帳だけを抱えて、倉庫を後にした。
気づけば、彼女は南新宿駅のベンチに座っていた。
シャッターの音も、部屋の記憶も、すでに遠い。
ただ、ポケットにはあの日記帳の一部が残されていた。
破れたページには、こう書いてあった。
「言えなかったことも、“あったこと”には変わりない」