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玄関の鍵が鳴ったのは、深夜を少し過ぎた頃だった。
重いドアの音に、リビングの空気がわずかに震える。
颯馬はソファの端に腰を下ろし、まだ荒い呼吸を整えきれずにいた。
指の関節には、乾いた血の筋が残っている。
その向こう、廊下の奥――半開きの扉の向こうで、遥は動かなかった。
「……帰ったのか」
呟くように言うと、階段のあたりで足音が止まる。
晃司の姿が現れたのは、それからすぐだった。
シャツの襟を緩め、ネクタイを無造作に外しながら、彼は部屋の中を見回す。
「またやったのか、颯馬」
低く笑う。
その声音には、呆れよりも楽しげな響きがあった。
「別に」
颯馬は吐き捨てるように答えた。
晃司はソファの背に腕をかけ、弟を見下ろす。
「“別に”ね。お前の“別に”って、だいたい碌な結果にならねぇんだよな」
「……黙れよ」
晃司の唇の端がわずかに上がる。
「何ムキになってんだよ。
どうせ、あの“恋人”のこと聞いたんだろ?」
颯馬の肩がぴくりと動く。
その一瞬を見逃さず、晃司はわざとゆっくりと笑った。
「図星か。日下部だっけ? 怜央菜が昔よくつるんでたやつ」
「……関係ねぇだろ、あいつは」
「あるさ。あいつがいるから、お前がこんな顔してる」
晃司の声は、柔らかい。けれどその柔らかさは、氷の表面みたいに冷たい。
「お前、ずっと遥のこと“壊したい”って顔してるよな。
でも、本当は――“壊せない”のが気に食わねぇんだろ」
颯馬が立ち上がる。
拳が震えていた。
晃司はその様子を眺めながら、口元だけで笑った。
「やめとけ。お前じゃ勝てねぇ」
「……何に」
「“あいつ”にさ。遥を壊すなら、もっと丁寧にやらなきゃ。
殴るだけじゃ、何も変わらねぇ。あいつ、痛みに慣れすぎてる」
沈黙。
颯馬の目が細くなる。
その奥で、怒りよりも深い混乱が渦を巻いていた。
晃司はポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
薄い煙がゆらりと漂う。
「……お前もわかってるだろ。遥は壊れても、壊れない。
そういうやつなんだよ。だから、みんなイラつく」
その言葉に、颯馬は何も言い返せなかった。
晃司の言う「みんな」には、家族全員が含まれている。
それがこの家の空気そのものだった。
晃司は煙を吐き出し、目を細めた。
「……ま、今夜はこのくらいにしとけ。
俺の番は、もう少し後でいい」
そう言い残して、晃司は階段を上がっていった。
颯馬はその背中を見送りながら、拳を握りしめたまま立ち尽くす。
何かを壊したい衝動と、壊せない現実のあいだで、ただ震えていた。
廊下の奥――
遥は、扉の陰でその会話をすべて聞いていた。
声を出せば、また世界が崩れる気がして。
息を潜めたまま、彼はただ、音のない夜に縫いとめられていた。