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十月九日、朝から花屋の裏口は布と紙と箱で埋まっていた。祭り用の半被の直し、名札のひも通し、受付布の端始末、花束の包装紙。ハルミネは小さな机を三つ並べ、その間を針山を刺したまま行ったり来たりしていた。
「座ってやればいいのに」
エフチキアが言っても、ハルミネは首を振る。
「立ってた方が早いから」
「早くても倒れたら終わりです」
「倒れないよ」
そう言った三時間後、本当に危なかった。
昼過ぎ、ハルミネは花屋の入口で、仕上がった布を高い棚へ置こうとして、ふっと手を止めた。布は落ちなかった。代わりに本人の膝が折れた。
近くにいたエルドウィンがとっさに受け止め、棚の角にぶつかる前に体を引いたから、大事にはならなかった。
「座る」
アンネロスの声が飛ぶ。
「でも、これ今日中に」
「座る」
今度はジョンナも言った。
花屋の奥へ運ばれたハルミネは、椅子に座った瞬間、急に小さく見えた。指先には糸くずがついている。頬にだけ疲れが出て、目だけはまだ作業の続きを追っていた。
「ごめん」
最初に出た言葉がそれだった。
ハヤは水の入ったコップを渡す。
「謝るところじゃない」
「でも、私が遅れると全部遅れるから」
「全部を一人で持つ前提がまず変」
ノイシュタットが珍しくまっすぐ言う。
「美しくないよ。倒れる段取りは」
「その言い方、ちょっと腹立つ」
ハヤが横から言うと、ノイシュタットは肩をすくめた。
「今は腹を立ててもらって構わない」
沈黙のあと、ハルミネが小さく笑った。
「ほんとに、全部自分で直そうとしてた」
「衣装屋あるあるだな」
アンネロスが焼き菓子を皿へ載せる。「人前に出るものを触る仕事って、自分が最後の砦みたいな気になるのよね」
「でも砦にも門番くらい必要」
エフチキアが真顔で言った。
その例えがおかしくて、皆が少し笑う。
作業はその場で分けられた。ひも通しはエフチキア、布運びはエルドウィン、端の印つけはジョンナ、仕上がり確認はハルミネ本人が座ったままやる。ノイシュタットは邪魔にならない役を申し渡され、名札の並び順を書き写す仕事を押しつけられた。
「僕の筆致が祭りを支える」
「黙って写してください」
オブラスが言う。
夕方、作業台の上には、分担されたぶんだけ風通しがよくなっていた。ハルミネは椅子に座ったまま、一枚ずつ布を確かめる。自分の手だけでは追いつかなかったところへ、皆の手が入る。崩れるのではなく、広がる感覚があった。
「限界って、越えるものじゃなくて、知らせるものかも」
ハルミネがぽつりと言う。
ハヤはその言葉を胸の中で繰り返した。
名を名乗ることも、助けを呼ぶことも、たぶん同じ場所につながっている。
花屋の外では、乾いた秋風が包装紙の端を鳴らしていた。倒れる前に声を出せたわけではない。でも倒れかけたあと、ちゃんと座った。それだけでも、今日の作業には十分な前進だった。
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