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十月十一日の深夜、閉店後の花屋は水の音だけがしていた。ハヤが売れ残りの花の茎を切り戻し、バケツの水を替えている。時計はもう日付をまたぎかけていた。
裏口の戸が控えめに鳴って、ノイシュタットが入ってきた。珍しく派手な声を出さない。手には、保管庫で使うはずだった看板の試作板が一枚ある。
「まだいたの」
ハヤが言う。
「君こそ」
「こっちは店の仕事」
「こっちは……少し考え事」
彼は看板を壁へ立てかけたまま、しばらく何も言わなかった。いつもなら、意味もなく凝った比喩を一つは挟むのに、それもない。
ハヤは花ばさみを置いて、作業台にもたれた。
「何」
「顔に出てる?」
「いつもより静か」
「それは重症だな」
笑うところなのに、笑い方が少し遅れた。
それで、ようやくハヤは本当に何かあるのだと分かった。
ノイシュタットは作業台の端へ指を置いたまま、視線を下げる。
「東京で一度、大きく失敗しただろう」
「うん」
「町の人は今、面白がってくれてる。祭りも、花屋も、僕の大げさな案も。けど、上手く行きすぎると、ふと怖くなる」
「何が」
「また町をおもちゃにする人間だと思われること」
バケツの水面が揺れた。
その言葉は軽くなかった。彼が普段、余計な飾りで隠しているところから落ちてきた声だった。
「前は、話を大きく見せることばかり考えてた。誰がその後片づけをするか、あんまり見てなかった」
指先が作業台を軽く叩く。「今は違うつもりだ。でも、つもりって、一番信用しにくい」
ハヤは少し考えてから、濡れた手を布巾で拭いた。
「今は皆でやってる」
それだけ言う。
ノイシュタットが顔を上げた。
「それ、慰め?」
「事実」
「もう少し詩があってもいい」
「今日は要らない」
花屋の天井灯が、夜の静けさの中で小さく唸る。
ハヤは続けた。
「前の失敗は、たぶん一人で勝とうとした失敗でしょ。でも今は、オブラスの数字があって、ジョンナの調べたことがあって、ハルミネの布があって、エルドウィンの腕があって、エフチキアの続けたことがある。あなた一人の出来には、もうならない」
言ってから、自分でも少し驚いた。こんなに迷いなく人を支える言葉が出るとは思わなかった。
ノイシュタットはしばらく黙って、それからほんの少し笑った。
「救われるな、それ」
「ならよかった」
「でも、格好いいことを言われると、こちらも格好よく返したくなる」
「今日はやめて」
「努力はする」
その“努力はする”が、いつもよりずっと素直で、ハヤはようやく少し笑えた。
帰り際、ノイシュタットは立てかけた看板を持ち上げた。
「明日、文字を少し減らす」
「珍しい」
「町の声を主役にしたいから」
そう言って扉を開ける直前、振り返る。
「さっきの、忘れないで」
「何を」
「今は皆でやってる、ってやつ」
「忘れない」
「なら、まだやれる」
戸が閉まり、花屋にまた水の音だけが戻る。
ハヤは新しい水へ茎を差しながら、誰かを励ます言葉は、そのまま自分の足元も支えるのだと思った。皆でやっている。その事実だけが、夜の花屋では不思議と明るかった。