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翌週の火曜日、朝風通りには朝から焼き上がりの匂いが漂っていた。
アンネロスの焼き菓子店の裏口へ呼ばれたハヤは、何が始まるのか分からないまま、花柄ののれんをくぐった。奥の作業台には、焼き上がったサブレのほかに、細長い紙片が何枚も並んでいる。紙は少し厚めで、角が丸く切られ、紐を通せるよう穴まで開けてあった。
「名札」
アンネロスが誇らしげに言う。
「見れば分かります」
「見ただけじゃ分からないところがいいんだよ」
彼女は紙片を一枚つまみ、ハヤへ差し出した。受け取ると、ほのかに甘い匂いがした。砂糖を焦がしたような、焼き菓子のやさしい香りである。鼻を近づけなくても分かる程度の、弱くて柔らかい匂いだった。
「……何したんですか」
「焼き上がりの熱が残るうちに、香りだけ紙へ移した」
「そんなことできるんですか」
「できるよ。やりすぎると食べ物みたいになるから、ぎりぎりで止めるのが大事だけどね」
作業台の向こうで、ハルミネが紐の長さを調整している。
「首にかけたとき、服に当たりすぎないようにした。香りがこもると重いから」
「何でそこまで」
「名札って、案外よく見られるでしょ。だったら、少しでも覚えてもらいやすいほうがいいじゃない」
エフチキアはもう自分の分を首から下げていた。紙には丸い字で「エフチキア」と書いてある。胸元で揺れるたび、彼女の動きといっしょに甘い匂いがかすかに広がった。
「どうです?」
彼女がくるりと回る。
「似合ってる」
ハヤが答えると、エフチキアは嬉しそうに笑った。
そのまま三人で花屋へ戻ると、ちょうど登校前の子どもたちが通りかかった。いつもは素通りするのに、今日は一人の男の子が立ち止まり、エフチキアの胸元を見上げる。
「いい匂いする」
「名札だよ」
「食べられる?」
「それはだめ」
子どもが笑い、付き添いの母親までつられて笑った。その流れで一輪包みが一つ売れ、ついでに今週末の誕生日用の小さな花束も予約が入る。たったそれだけのことなのに、店先の空気がするりと軽くなった。
常連の女性客も、エフチキアの名札を見て目を細めた。
「あなた、エフチキアさんっていうのね。前から顔は知ってたけど、名前まで覚えやすい」
「ありがとうございます」
「ほんのり甘いのもいいわねえ。お菓子屋さんと一緒にやってるの?」
そこから会話が弾み、菓子店の話、祭りの話、通りの話へつながっていく。
ハヤはその様子を、レジ脇からじっと見ていた。
名札一つで、こんなふうに声のかけられ方が変わるのかと思う。けれど同時に、自分の胸元へそれを下げる場面を想像すると、喉のあたりが落ち着かなかった。名前を読まれることは、思ったより近い距離で見られることだ。
アンネロスが、当然のようにもう一枚の名札を差し出した。
「はい、ハヤの分」
紙は同じく丸い角で、まだ文字は書いていない。
「いりません」
「早いね」
「必要になったら考えます」
「必要になる前に作るんだよ、こういうのは」
ノイシュタットが、花の水を替えながら横から口を挟む。
「必要になる前に椅子を置くのと同じだね。疲れる前に座れるように」
「その例え、少し分かります」
ハヤが言うと、彼はわずかに眉を上げた。
「少しは前進だ」
「名札を着ける話とは別です」
「厳密だな」
昼過ぎ、名札の紙をレジの横へ置いていたら、さっきの子どもが祖母ともう一度やって来た。
「おばあちゃん、このお姉さん、いい匂いの名前つけてる」
「名前をつけてるんじゃなくて、下げてるのよ」
祖母が笑いながら訂正し、結局また店内が和んだ。
そのやり取りのあと、ハヤは自分の分の名札をそっと手に取った。紙は軽い。軽いのに、胸へ下げる想像だけが重い。
結局、その日は書かなかった。
閉店前、引き出しを開けて、一番奥に名札をしまう。目につかない場所へ押し込む手つきは、まるで自分の名前そのものを一時預かりへ出すみたいだった。
引き出しを閉めた瞬間、紙の甘い匂いがわずかに残る。
見ないふりをしてもしばらく消えないところが、思いのほか厄介だった。
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