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九月の雨は、降ると決めた日は半端がない。町立図書室の窓は昼なのに薄暗く、古い本の背表紙が雨音に合わせて沈んだ色に見えていた。
ジョンナは机いっぱいに新聞の縮刷版と資料を広げ、袖を少しまくっていた。ハヤ、ノイシュタット、オブラスの三人は、閲覧室の端で湯気の抜けた紙コップを持ちながら、その手元を覗き込んでいる。
「見つけました」
ジョンナが短く言う。
彼女が指したのは、二十年前の町報の切り抜きだった。祭りの記事の片隅に、小さく《導線設計協力 真柄蒼司》とある。写真はない。名前だけが、事務的な文字で残っていた。
「やっぱりこの人が電子辞書の持ち主」
ハヤが呟く。
ジョンナは次の紙を出した。今度は図書室に寄贈された研究会の会報で、真柄蒼司の名前が園芸用の土壌水分管理、山間部の避難導線、町内放送の配置図にまで出ている。
「花も土砂も放送も、全部やってるんですか」
ノイシュタットが眉を上げる。
「面白いと思ったものを、全部つなげて考える人だったんでしょう」
ジョンナが答える。
「祭りの回遊路と避難路が重なる設計になっていたのも、その癖なら説明がつきます」
オブラスは記事を一枚ずつ順に並べた。
「数字も地図も読める。こういう人間は便利だ。便利すぎる人間は、だいたい周りが甘える」
その言葉に、ジョンナがわずかに視線を上げる。
「もう一つあります」
彼女は閲覧申請の束の中から、茶色く変色した封筒を取り出した。町の青年会が保管していた聞き書きの控えだという。中には、祭りの準備を知る人の証言が数行ずつ入っていた。
《真柄さんは、配線も段取りも避難経路もひとりで抱え込んでいた》
《頼まれると断れなかった》
《好きな相手にも、肝心なことは言えない人だった》
最後の一文を読んだとき、ノイシュタットが咳払いをした。
「最後だけ急に生々しいね」
「祭りの日誌の余白に書かれていました」
ジョンナは感情を混ぜずに答える。
「手書きです。“頭は切れるのに、好きだの助けてだのは最後まで言えない”と」
ハヤは、机の上の電子辞書を見た。供花、土質、方言、告白、避難経路。あの脈絡のなさは、脈絡がなかったのではないのかもしれない。町を守ることと、人に花を渡すことと、誰かの名前を呼ぶことを、ひとつのこととして考えていたのだ。
「天才、ですね」
ハヤが言う。
ノイシュタットは、少し遅れて肩をすくめた。
「天才にも、刺さるところは一箇所で十分らしい」
それは軽口の形をしていたが、机に落ちた声はあまり軽くなかった。ハヤが横を見ると、彼は雨で曇った窓の外を見ていた。
ジョンナは封筒を閉じる。
「設計図を作れる人でも、言葉を渡すのが苦手なことはある。たぶん、だから電子辞書に下書きを溜めたんです」
下書き。
その言い方に、ハヤは少し胸を突かれた。名札を引き出しにしまったままの自分も、言葉を声にする代わりに、説明札や伝票にだけ気持ちを置いてきたのかもしれない。
帰り際、ノイシュタットが机の端の紙切れを指で弾いた。
「理系の頭脳。避難路の設計。恋には沈黙。なかなか救いがない」
「笑ってます?」
ハヤが聞く。
「いや。まるで他人事じゃないと思っている」
その答えがあまりに素直で、ハヤは返す言葉を失った。
雨脚はまだ強い。けれど図書室を出るころには、山の上の霧が少しだけ薄くなっていた。
電子辞書の持ち主は、何でも計算できたのに、たった一言だけ計算できなかった。
その不器用さが、遠い昔の人物なのに、生々しく感じられた。