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閉店後の花屋には、昼の賑わいが嘘のような静けさが戻る。店先の灯りを半分に落とすと、ガラス越しの朝風通りは、もう通り過ぎる人の足音だけの場所になっていた。
その夜は、売れ残った花の手入れがいつもより多かった。昼に外から来た客が増えたぶん、店先へ出していた鉢や切り花も多く、閉店後に切り戻す本数も増える。
ハヤは作業台で白いトルコキキョウの茎を揃え、ノイシュタットは隣で包み紙の束を整えていた。いつもなら余計な比喩を一つは挟む男が、今夜はおとなしい。
「今日は静かですね」
ハヤが先に言う。
ノイシュタットは、輪ゴムを指で弾きながら笑った。
「反省している顔に見えない?」
「少しも」
「正直で結構」
ハヤは茎の先を斜めに落とし、水へ浸ける。切った瞬間の音は小さいのに、夜はそれがよく響く。
「外から来たお客さん、増えましたね」
「地方紙の効果もあるし、君の説明札も効いている」
「私は、花のことを書いただけです」
「それが効くんだよ」
ノイシュタットは包み紙の端をそろえ、声の調子を少し落とした。
「誰かの記憶に残る店って、値段表だけじゃできない。どこで買ったか、誰が渡したか、どういう顔で受け取ったか。そういうものまで一緒に残る」
ハヤは手を止めた。
「でも、数字がないと潰れます」
即答だった。言ってから、自分でもきつかったかと思う。けれど、ノイシュタットは不機嫌にならなかった。
「その通りだ」
彼はうなずく。
「僕は、残る記憶ばかり見たがる。オブラスは、残る数字を見ている。君は、どちらが欠けても駄目だと分かってる」
店の奥で冷蔵庫が小さく鳴る。外では坂を上るバイクの音が一度だけして、すぐ遠ざかった。
ハヤは新しい水を桶へ足しながら言った。
「数字だけでやるなら、白群に入ったほうが楽なんだと思います」
「うん」
「でも、楽と、続くは、同じじゃない気もする」
「うん」
短い返事が二つ重なっただけなのに、会話は途切れなかった。
ノイシュタットは売れ残りのカーネーションを一本取り上げる。
「これ、どうする」
「開きすぎてるから、明日の見本用」
「じゃあ、まだ役目がある」
「花はそうです」
「店もそうだといい」
その言い方がいつになくまっすぐで、ハヤは笑いそうになる。けれど笑う代わりに、束ねていた茎を少し強く握った。
「あなたは、どうしてそこまで」
問いかけが途中で止まる。
何を聞きたいのか、自分でもはっきりしなかった。東京で失敗したのに。町に笑われたのに。どうしてまだ、こんなふうに店へ残るのか。
ノイシュタットはそれを汲んだのか、そうでないのか、包み紙の山を軽く叩いた。
「今度ちゃんと話すよ」
「今は?」
「今は、花を先に生かす時間だ」
もっともらしい答えだった。ずるいとも思う。
けれど、ハヤはその逃げ方が嫌いではなかった。
夜の作業が終わるころ、店の奥に積んでいた売れ残りは、明日に回せるものと見本にするものへきれいに分かれていた。無駄になるはずだった花に、もう一度役目が与えられている。
ハヤは濡れた手を拭きながら、作業台の上のカーネーションを見た。
数字がなければ潰れる。
でも、数字だけでは残らない。
今、同じ台の上に、その両方が置かれている気がした。
花屋の夜更けに必要なのは、派手な言葉ではなく、同じ問題を同じ高さで見てくれる相手なのかもしれない。
そう思ったとき、店の静けさが少しあたたかくなった。