それから数日後──…
デスクで資料整理をしていると、不意に課長から「コピー頼めるか」と声がかかった。
「あっ、はい!」
コピー機に向かう俺の足取りは、数日前のあの緊張とは打って変わって、昨日よりもずっと軽やかだった。
尊さんと、課長に事情を聞いてもらってから
張り詰めていた心が少しずつ解けていくのを感じていた。
俺の日常は、尊さんの存在と、周囲のさりげない配慮によって守られていた。
◆◇◆◇
オフィス全体が穏やかな午後の光に包まれていた。
窓の外の喧騒も、このフロアまで届く頃には柔らかなBGMのようだ。
パソコン画面とにらめっこしながら、集中して次期プロジェクトの資料作成を進めていると
背後から課長が近寄ってきた。
「雪白くん、明日、室井社長がいらっしゃる予定だが……昨日烏羽とお前から話してもらった通り、室井社長が来ている間は席外してもらっていても構わないが…どうする?」
課長の声は低いトーンで、周囲に聞かれないよう気を遣ってくれているのがわかる。
俺の胸の奥で、再び不安の種が芽生えかけたが、すぐにそれを打ち消した。
「えっと…でしたらその間だけ、別室…休憩室移動して資料作りしていてもいいですか?」
室井という名前を聞くだけで、体がこわばる。
あの威圧感に耐えながら同じ空間にいるのは、今の俺には酷だ。
「あぁ、そこの判断は雪白に任せるが…」
課長は頷き、俺の意思を尊重してくれた。
「…課長、ありがとうございます…!!」
俺は思わず深く、丁寧に頭を下げた。
課長は「いやいや」と照れ臭そうに頭を掻く。
「烏羽も心配してるみたいだし、内容までは聞いていないから分からないが、パワハラなんて今一番問題視されているからなぁ……しかしどんな人間であれ取引先だ、穏便に済まさないといけないからな」
課長はそう言い残し、自分の席へと戻っていった。
課長が立ち去ると入れ替わりに、缶コーヒーを持った尊さんがやってきた。
いつも通りの、周囲に揺るがない存在感だ。
「雪白、もう昼だぞ。飯行くか?」
「えっもうそんな時間…!行きます!」
時計を見ると、確かに針は正午を指していた。
時間の流れに気づかないほど、資料作成に集中していたらしい。
二人で並んでエレベーターホールへ向かう。
俺の歩調が、わずかに重いことを察したように
尊さんは低い、落ち着いた声で聞いてきた。
「……明日、まだ不安か?」
尊さんの質問はいつも核心を突いてくる。
隠し立てする意味もない。
「正直言えば……また会うかもしれないと思うと怖いですけど、室井さんが来ている間は席を外して休憩室にいることにしましたし、大丈夫かなって」
口にすると、その決断が正しかったと確信できた。
物理的に距離を置くことが、今の俺にとって一番の防御策だ。
「そういうことなら、室井が帰ったらノックで合図してやる」
「そうしてもらえると助かります……!それに、尊さんや課長と話せたことで少し気持ちも整理できた気がします」
俺の言葉に、尊さんの表情が微かに緩む。
「そうか、なら良いが…」
エレベーターが来るのを待つわずかな時間。
俺は意を決して、尊さんに言葉をかけた。
「あの……尊さん」
「ん?」
「…お世話かけてすみません。心配してくれて、ありがとうございます」
尊さんは当然のように答えた。
「恋人を、部下を心配するのは当然だろ」
そのストレートな言葉に、俺は頬が緩むのを感じた。
「…えへへ……やっぱ尊さん、優しい」
「普通だろ」と尊さんは言うが、俺にとっては特別だ。
尊さんの声を聞くだけで、胸に巣食っていた不安が、朝霧が陽光に照らされて霧散していくような気がした。
◆◇◆◇
翌日の午後三時。
ついにその時が来た。
エントランスに黒塗りの高級車が停まる音が、フロアの静寂を破るように遠くから届いてくる。
秘書らしき男性に続いて降り立ったのは、禿頭の男。
室井崇嗣──あの忌まわしい影が、重い足取りでオフィスフロアへと近づいてくる。
企画開発部フロアは、まるで空気が凍り付いたかのように、妙な緊張感に包まれた。
普段は賑やかなキーボードの音や話し声も影を潜め、誰もがピリついた空気を感じ取っている。
俺は課長の言葉通り、速やかに隣の休憩室に移ることにした。
休憩室のドアを閉め、小さな空間に身を隠す。
室内からは何やら話し声が聞こえるものの、壁を隔てているため内容までは届かない。
ただ、時折漏れ聞こえる社長の大きな笑い声が、俺の肌を粟立たせた。
あの高笑いが、俺のいる場所へ響いてくるのが恐ろしい。
数十分が、数時間にも感じられるような重い沈黙の中で過ぎ去った。
壁越しに聞こえる声に、いつ俺の名前が出るかとひたすら耳を澄ませる。
その緊張の糸が切れたのは、休憩室の扉がコンコンと、規則正しくノックされた瞬間だった。
尊さんが顔を出し「もう大丈夫だ」という合図を静かに送ってくれた。
その表情は、先ほどまでのフロアの緊張とは無縁の、落ち着いたものだった。
ようやく一息つける場所へ、俺は戻ることができた。
「室井なら出ていった。課長も一緒に見送りに行った」
「そうなんですね……」
休憩室から戻ってくると、オフィスの空気はすでに落ち着きを取り戻していた。
緊張が解けた後の、気の抜けたような穏やかさが戻っている。
◆◇◆◇
退社後───。
俺たちは二人並んでオフィスビルを出た。
ホッとしたのも束の間、尊さんがふと立ち止まって言った。
「…ないな」
「ないって?」
「悪い、デスクにスマホ忘れたみたいだ。すぐ取ってくるからここで待っててくれ」
そう言って尊さんが踵を返すと同時に、オフィスビルの自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き抜けた。
冬の夜の冷気が、疲れた体に染みる。
彼の背中を見送りながら、俺は少し俯いた。
今日一日の緊張がまだ体に残っている。
ふと耳に入る革靴の音。
そのリズムが、尊さんの足音とは違うことに気づき、慌てて振り返った。
振り返ると同時に声をかけられる。
「やっぱりいたか」
その低く濁った声には、聞き覚えがあった。
俺の全身が、一瞬で冷たい水に浸されたように硬直する。
喉が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
慌てて視線を上げると、エントランスの明かりの下に立っていたのは間違いなく室井だった。
灰色のスーツを着込み、夕闇に浮かぶ禿げ上がった額が異様に目立つ。
まるで夜の闇から現れた悪意の塊のようだ。
「っ……!!」
全身が硬直するのが分かった。
逃げなければ。
そう理性が叫ぶのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。
「今日は随分と逃げ回ってくれたな。挨拶くらいしてほしかったのによ~」
コメント
2件
わわわ、またもや素敵なエピソードでした🫶‼️ 最近は忙しく、すぐコメントなどできなくてごめんなさい🙏‼️ 毎度思うんですけど1エピソード事の完成度高すぎてびっくりしちゃいます‼️🫢しかもルイさん完結するまでちゃんと最後まで物語続けてくれるので、読者からするとめちゃめちゃ嬉しいです🥲💖ましてやこの作品なんか続編ですよね😭‼️ほんとに嬉しいです🫶‼️ またまた素敵なエピソードをありがとうございました‼️🎁🤝