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#執着
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マンションの鍵を開けると、静まり返った暗闇が私の帰りを待っていた。
遼、まだ帰ってないんだ……。
部屋の灯りをつけ、深いため息とともにリビングのソファーへ腰を下ろした。
背中をクッションに預け、真っ白な天井を見つめる。
そして、ゆっくりと瞼を閉じた。
窓ガラス越しに微かに聞こえる車の音。
「はぁ……」
静まり返った空間に、私のため息だけが虚しく響く。
しばらく目を閉じたまま力なくソファーに身を預けていると、不意にメールの着信音が鳴った。
今泉さん!?
慌ててテーブルの上のバッグを手に取り、中から携帯を引っ張り出す。
急いでメール画面を開いた。
「……今泉さんのわけ、ないよね……」
こんな時間に……。
行き場のない息を吐きながら、メールの文字を見つめる。
差出人は夫だった。
『今日のオペスタッフと夕飯を食べに行くことになった。帰りは遅くなる。ビール冷やしておいて』
いつものように、要件だけが綴られた素っ気ないメール。
「帰りは遅くなる……か」
携帯をバッグへ放り込み、私は再びソファーへ倒れ込んだ。
遅くなる……
遅くなる……
遅くなる……
何度、この文字を見つめながら、一人きりの夜を過ごしてきたのだろう……。
人のために頑張っている人間が吸ってもいい甘い蜜……
誠実な人間であるために必要な裏と表……
……それなら、私はどうなるの?
毎日毎日、医者としてのプライドと誇りを持って働いている。
家事だって、できる限りこなしている。
それなのに……
これからも、こうしていつ帰るか分からない、他の女の匂いを漂わせる夫の帰りを待ち続けるの?
他の女を抱きしめた服を洗濯し、
他の女に会うための服にアイロンをかけ、
他の女を想う夫のために食事を作るの?
私は……
一体、何のためにここにいるのだろう……。
クッションに顔を埋め、ぎゅっと瞼を閉じた。
お互いを守る覚悟……
遼は、その覚悟をして、その女と一緒にいるの?
何を求めてるの?
分からない……
私には、分からない……。
私が踏み出せないこの迷いや苦しみを、
手探りで進むしかない不安や罪悪感を、
どうやって乗り越えたの?
教えて……
「教えてよっ!」
顔を埋めていたクッションを掴み、勢いよくフローリングへ叩きつけた。
床に叩きつけられたクッションは、弾んだ勢いで無造作に積み上げられた夫の雑誌を倒し、床へと転げ落ちた。
「……」
私は床に散らばった夫の雑誌を睨みつける。
感情に流されるんじゃない。
自分から望んで飛び込むんだ。
私にだって、知る権利がある。
まだ、終わらない……
まだ、枯れない……
このまま朽ちて、女として惨めな自分を嘲笑いながら生きていくなんて、もう嫌だっ。
私は変わってみせる……
「このまま終わらせない。
夫を待ち続けるだけの毎日なんて要らない。
私は朽ち果てないっ」
大きく息を吸い込み、今度は壁の一点を真っ直ぐ睨み据えた。
「今泉さん……
私、やっと覚悟ができました」
甘い蜜を吸うために、
狡い女になる覚悟が──。
そう呟いて立ち上がった私は、バッグを握り締め、勢いよく玄関を飛び出した。
最寄りの駅まで走って約五分。
車のヘッドライトが、携帯を打ちながら走る私を照らしては通り過ぎていく。
今泉さん……
お願い、まだ帰らないでいて!
会いたいの、あなたに……
どうしても、今すぐ会いたい。
メールの送信ボタンを押し終えると、携帯を握り締めたまま空に浮かぶ満月を見上げた。
秋の風に流れる薄雲は、月の光を受けて淡い灰色に染まっている。
自暴自棄になってるわけじゃない。
これが私の本当の気持ち。
今じゃなきゃ駄目……
私の心が醜く歪んでしまう前に……
――壊れてしまう前に。
早鐘を打つ心臓。
乱れる呼吸。
私はヒールの踵を鳴らし、息を切らしながら駅の改札口へ飛び込んだ。
コメント
1件
うわ、この主人公、ついに動き出した…!「狡い女になる覚悟」って言葉がすごく刺さりました。ずっと抑えてた感情がクッション叩きつけるシーンで一気に爆発して、その後の疾走感が読んでるこっちの心臓も早鐘打たせました。今泉さんに届いてほしい。 - リオン