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帳場机の前で、誰もすぐには口を開けなかった。
享佑の手の中にある清書には、赤鉛筆で細かな印が入っている。句読点の位置、札の順番の仮番号、聞き書きとの照合らしい小さな丸。隠したというより、作業の途中で差し込んだような跡だった。
「美恵さん」
芽生が先に声を出す。
「これ、確認してくださってたんですか」
美恵は少しだけ唇を結んだ。
「昨日の夜、皆が帰ったあと」
「なんで言わなかった」
蓮都が聞く。
「期限が詰まってるなら、数字と文言の整合、先に見たほうがいいと思って。言う前に終わるつもりだったの」
享佑は紙を見たまま言う。
「だったら机の上に戻しとけ」
「戻す前に、帳場の電話が鳴ったのよ」
「それで朝まで?」
「そのあと住職の薬のこともあったし、私だって全部一人でやってるわけじゃない」
語尾が少し強くなる。
啓介は割って入ろうとしたが、遅かった。義海が「でも消えたみたいになったら焦るだろ」と言い、莉々夏が「先に一言だけでも」と続けてしまう。
美恵の顔から、すっと色が引いた。
「責めてるわけじゃ」
啓介が言う。
「責めてる顔してる」
美恵は静かに返した。
「分かってる。私が先に言えばよかった。それでいいでしょ」
その“それでいいでしょ”が、全然よくない響きをしていた。
芽生が一歩近づく。
「美恵さん、私たち――」
「私は数字だけ見てればよかったのよ」
美恵はそう言って、享佑の手から清書を受け取った。大事にではなく、雑にもせず、仕事としての手つきで。
「話の温度とか、泣けるかどうかとか、そういうのは啓介くんたちが見ればいい。私は締切と辻褄だけ見ます」
「そんな言い方」
啓介が思わず止める。
けれど美恵はもう聞いていなかった。帳場の奥へ引っ込み、引き戸を半分閉める。
ぴしゃり、ではない。
それがかえって、距離を感じさせた。
離れに残った皆は、さっきまでより静かだった。
清書は見つかったのに、場の芯みたいなものが、ひとつずれた気がした。
#海辺の町