テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
昼前になっても、美恵は帳場から出てこなかった。戸は少しだけ開いていて、中では紙をめくる音と、そろばんを置き直す小さな音だけが続いている。
啓介は離れの机で何度も筆を持ち直した末、とうとう立ち上がった。
「どこ行くの」
芽生が聞く。
「ちょっと」
「その“ちょっと”は、だいたい美恵さんですね」
「分かる?」
「分かります」
止められるかと思ったが、芽生はそれ以上言わなかった。ただ、「怒られたら帰ってきてください」とだけ言った。
帳場の戸を軽く叩くと、美恵が「どうぞ」と返す。声はいつも通りなのに、机へ向けた背中が少し固い。
「邪魔だったら後で」
「今でいいわよ」
啓介は机の脇に立った。帳面、寄付控え、離れの修繕見積もりの写し。美恵の前には、感情より先に数字が並んでいる。
「さっきは、ごめん」
啓介が言う。
「みんな焦ってて」
「焦ってるのは分かる」
美恵はそろばんの珠を一つ戻す。
「でも、私も同じだったのよ」
啓介は少し黙ってから、思い切って言った。
「数字、見てほしいんです」
「見てるわよ」
「そうじゃなくて」
美恵がようやく顔を上げる。
「離れが今まで助けた人数とか、何日に何人いたとか、残ってる分だけでも拾えないかなって」
啓介は言葉をつなぐ。
「情だけじゃ弱いなら、数字でも残したい。ここが何人に必要だったか、見える形にしたいんです」
美恵の目が少し変わる。
「……それ、私に頼むの」
「美恵さんが一番できるから」
「さっきまで、感情の側にいないみたいな顔してたくせに」
「してた。だから謝りに来た」
啓介は正面から頭を下げた。ごまかさずに下げるのは、思っていたより体力がいる。
しばらくして、美恵が小さく息を吐いた。
「ずるいわね。ちゃんと謝ると、こっちが怒り続けにくい」
啓介は顔を上げる。美恵はまだ完全には笑っていない。でも、閉じていた戸の空気が少しだけ動いた。
「古い寄付帳と宿帳、残ってる分なら拾えるかも」
美恵が引き出しから厚い帳面を出す。
「雨の日の一時利用、避難、寝泊まり。書き方はばらばらだけど」
「お願いします」
「お願いされる前にやってる」
そう言いながらも、美恵の手はもう帳面を開いていた。
古い紙の匂いが立つ。
その最初の頁に、美恵は赤鉛筆で小さく印をつける。
離れが助けた人数を、数字で拾い上げる作業が、そこで静かに始まった。
#海辺の町