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逃げないと決めた翌日から、イルネリオの仕事は二つに割れた。
昼は書庫で帳簿をそろえ、夜は屋台で鍋をかき回す。その合間に、地下の石板を削った手が地上でどこを歩いているのか、目と耳を増やして探る。
ニコリナは歌の合間に酒場の噂を拾い、グンナルは売掛帳と貸し札を見比べ、レオニナは補給倉の鍵の貸し出し記録を洗い直した。西門の風は相変わらず冷たいのに、砦の内側だけが別の熱を帯びている。鍋の火ではない。誰かが先に逃げ道を作ろうとしている熱だった。
最初に引っかかったのは、鍵の貸し出し札だった。
補給棟の裏机で、レオニナが細い炭筆を止める。
「第三倉と乾物庫の鍵が、同じ男に短い間隔で何度も出てる」
札へ書かれていた名は、ヴァルド。
王都から派遣された監査役という触れ込みで、三日前から帳簿の整合を見ている男だった。書式にうるさく、言葉は丁寧で、補給隊の者にもやたらと礼を言う。だが、グンナルはその名を見たとたん鼻を鳴らした。
「丁寧すぎるやつは、たいてい相場を知らん」
「相場?」
イルネリオが聞き返すと、グンナルは指を一本立てる。
「麦袋を一つ運ばせる賃金、荷車の車輪を半日借りる代、塩を湿らせたときの損。そういう細かい値を、ここの人間は会話の端で覚える。だがあの男、きのう俺に『今の乾燥豆は高いですね』と言った。高いも安いも、その日そこに積まれてる豆を見りゃ言い方が変わる。口ぶりだけ王都の役人なんだ」
ニコリナも、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「東門でも見たよ。そのあと南の物見塔でも。荷札を持たない補給役なんて、歩くたびに靴が怒るのに、あの人の靴だけ妙に静かだった」
砦の仕事をしている者の靴は、急ぎ方や重さで鳴り方が変わる。言われてみれば当然のことを、イルネリオはようやく腑に落とした。
人のふりはしていても、この街の重さを履いていない。
その夜、屋台はいつも通り開いた。
いつも通りに見せるためである。
鍋の中身は、塩豚と白豆の煮込みに、刻んだ根菜を落としたもの。腹持ちがよく、夜半の見回りでも足がぶれにくい。フロイディスは火を弱め、ニコリナは客の前でわざと明るく歌い、カリドウェンは「今日は豆がやけに多い」と文句を言いながら二杯目を頼んだ。
だが屋台の裏では、別の段取りが進んでいた。
補給倉の奥、乾物庫へ続く通路の灯を一本だけ残し、第三倉の鍵はわざと返却台の見える場所へ置く。帳簿も一冊、半ば開いたまま机へ伏せておく。覗きたくなるように、盗りたくなるように。
「引っかからなかったら?」
イルネリオが小声で言うと、レオニナは壁にもたれたまま答えた。
「そのときは、明日も続けるだけ」
短い返事だったが、逃がす気はなかった。
シャルヴァは暗がりの角へ楯を一枚立て、コンスエラは祠から持ってきた白い糸を通路の足首ほどの高さへ渡した。人が勢いよく走れば、切れずに鳴る仕掛けだ。イルネリオは胸の鼓動を落ち着けるため、鍋から立つ湯気を一度だけ深く吸った。塩と豆の匂いの奥に、まだ来ていない獣じみた乾きが混じる気がした。
真夜中を回った頃、乾物庫のほうで、かすかな金具の触れ合う音がした。
屋台の笑い声に紛れそうな、小さな音だった。だが次の瞬間、コンスエラの糸がぴんと鳴る。
レオニナが先に動いた。
通路へ飛び込み、返却台の脇へ立つ影へ短剣を向ける。
「そこまで」
灯に照らされたのは、見慣れた補給役の上着だった。その下で、ヴァルドが振り返る。片手には第三倉の鍵、もう片手には帳簿の切り取り片。表情だけ見れば、捕まった役人のそれだった。
「これは失礼。監査の途中で、不正の痕跡を見つけまして」
「なら昼にやりなさい」
レオニナの声は低い。
「夜中に鍵を持ち出す監査役なんて、王都でも見たことがない」
ヴァルドは肩をすくめた。困ったように笑う仕草まで、昼間はよくできていた。
「疑われるのは心外ですね。私はただ、この砦がいつまで持つか、数字で確かめていただけです」
「数字を削るために、備蓄も減らした?」
グンナルが背後から言う。
「賃金を惜しむ役人でも、豆袋の口をあんな雑には縛らん」
ニコリナが反対側の出口へ回り込み、シャルヴァが楯で退路を塞ぐ。囲みは狭い。人間なら観念するしかない距離だった。
それでもヴァルドは、観念しなかった。
彼は一歩下がると、やれやれとでも言いたげにため息をつく。
「面倒ですね。人間は、最後まで帳簿の数字で争っていてくれればよかったのに」
その声で、何かが剥がれた。
丁寧すぎた抑揚が消え、喉の奥からざらついた響きが出る。次の瞬間、頬の皮膚がひび割れるように裂け、こめかみのあたりから黒い角がぬっと押し出した。上着の肩口が破れ、指先の爪が灯を弾いて伸びる。
ニコリナが息をのむ。
「うわ、ほんとに化けの皮だ」
冗談めかした言葉なのに、笑う者はいない。
ヴァルドだったものは、唇の端を吊り上げた。人の顔へ無理やり鬼の形を押し込んだような、乾いた笑みだった。
「守護鬼は街に根を張る」
その声は通路の石までざらつかせた。
「ならば街を空にすれば、ただの飾りだ」
言い終わるより早く、コンスエラが踏み込んだ。
白刃が喉笛を狙い、同時にシャルヴァの楯が横から叩き込まれる。鬼は後ろへ跳んだが、通路が狭い。レオニナの短剣が肩をかすめ、イルネリオは反射的に鍋の蓋を掴んでその横顔へ叩きつけた。金属の甲高い音が鳴り、鬼の顔が初めてゆがむ。
「鍋で殴るな!」
カリドウェンの怒鳴り声が、なぜか屋台のほうから飛んできた。客の避難を終えて駆けつけたらしい。
「文句はあとで!」
イルネリオが叫び返した直後、鬼の腕が振るわれる。爪が石壁を削り、火花が散る。もし正面から受けていたら、誰かの腹が裂けていた。
そこへシャルヴァの楯が滑り込む。爪は鉄板の表をえぐったが、勢いは止まった。
「今だ、隊長!」
レオニナが踏み込み、短剣を鬼のわき腹へ深く差し入れる。コンスエラの白糸がその脚へ絡み、動きを一瞬だけ鈍らせた。だが、とどめには届かない。鬼は獣じみた唸りを上げると、乾物庫の壁へ肩から突っ込み、古い木板ごと外へ抜けた。
通路の向こう、夜の闇へ黒い影が走る。
追おうとしたカリドウェンを、アクバルが腕一本で止めた。
「深追いするな。逃げ道を用意してる顔だ」
その低い声で、全員がぎりぎり踏みとどまる。
外へ出ると、北の谷のほうから風が吹いていた。
冷たいだけではない。乾いた土と、血を待つ獣の匂いが混じっている。イルネリオの舌に、嫌な味が広がった。遠い。だが遠いだけで、来る。
コンスエラが空を見上げる。
「合図を送ったね」
レオニナは破れた補給役の上着を拾い上げ、血のついた布端を見た。
「総攻撃まで、あまり猶予はないわ」
グンナルが地面へ唾を吐く。
「荷を守る勘定から、街を守る勘定に変えるぞ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
イルネリオは屋台へ戻り、倒れかけた鍋を立て直す。蓋の縁は少し曲がっていたが、まだ使える。湯気は消えていない。
鬼は逃がした。けれど、化けの皮は剥がれた。
北の谷の群れが来るまで、残された日は多くない。
それでも火を落とさないかぎり、この街はまだ飾りでは終わらない。