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ヴァルドが逃げてから三日、ルメリアの空は目に見えて長く明るくなった。
夕方の鐘が鳴っても、石畳にはまだ薄い金色が残る。北の城壁へ物を運ぶ荷車の影が、昼の名残を引きずるみたいに長くのびていた。砦じゅうが総攻撃への備えで慌ただしいのに、日差しだけは妙にのどかで、その落差がかえって人の胸を落ち着かなくさせた。
屋台でも仕込みの時間がずれ始めていた。
日が沈み切る前から、フロイディスが豆を洗い、シャルヴァが西門脇へ臨時の鍋台を据え、ニコリナは木箱へ座って、通りを行く人の顔を順に眺めている。明るいうちから人が寄るようになったぶん、笑い声も早く立つようになったが、その笑いの下には、十日もない猶予を皆が知っている硬さが残っていた。
イルネリオは刻んだ玉ねぎを鍋へ落としながら、夕陽に照らされた湯気を見上げた。
横へ流れた煙が、ふいに昔の路地を連れてくる。
子どもの頃の記憶だった。
まだ背丈が鍋の縁より低かったころ、母は短い夏だけ、家の前の細い路地へ卓を出した。大きな店ではない。夕暮れが長い時季だけ開く、近所向けの小さな夕方食堂だった。椅子はそろっていなくて、客が増えると家の中から踏み台まで運び出した。鍋の中身も立派ではない。根菜の煮込み、焼いた薄パン、余った豆を刻んで包んだ焼き団子。けれど、夕日が壁を赤く染める頃になると、知らない人同士が同じ皿の香りに足を止め、仕事帰りの靴の土を落としながら腰を下ろした。
母は忙しいときほど、大声で客を急かさなかった。皿を置く音、匙が当たる音、誰かが二口目で肩の力を抜く様子を、湯気の向こうから見ていた。
イルネリオはその横で、パン籠を抱えたり、水差しを運んだりしていた。日が長いからこそ生まれる、夕方の余白。あの余白があると、人は明日のことを少しだけやわらかく話せるのだと、今になってわかる。
「焦がすわよ」
レオニナの声がして、イルネリオははっと現実へ戻った。
鍋の端では玉ねぎが危ない色を帯びかけている。慌てて木匙を入れると、彼女は呆れたように片眉を上げた。
「考えごとをするなら、せめて鍋から離れて」
「すみません」
「叱ってるわけじゃないの。ただ、今夜の分まで炭にしたら、兵が泣く」
そう言ってレオニナは自分で水差しを持ち、鍋の脇へ少しだけ差し水をした。湯気がふわりと上がり、彼女の頬へ夕陽が薄く差す。
イルネリオは木匙を動かしながら、ぽつりとこぼした。
「日が長くなると思い出すんです。子どもの頃の、夕方だけ開いてた食堂を」
「家でやっていたの」
「はい。母が。夏だけですけど」
レオニナは鍋の様子を見るふりで、少し近くへ寄った。
「どんな店だったの」
「立派ではなかったですよ。椅子もばらばらでしたし、卓も一枚だけで足りなくなって、樽をひっくり返して代わりにしたりして」
言いながら、イルネリオは自然に笑っていた。
「でも、帰り道の人が途中で座って、知らない顔同士でパンを分け合って。店というより、長くなった夕方を少しだけ一緒に過ごす場所でした」
「……それで、あなたは屋台をそうしたいのね」
レオニナの言葉は静かだったが、よく当たっていた。
イルネリオはうなずく。
「腹を満たすだけなら、配るだけでもいいんです。でも、顔を合わせて食べると、守る相手の輪郭が変わる気がして」
その言葉に、レオニナはすぐには返事をしなかった。
鍋の中で豆が小さくはじける音を聞きながら、彼女は西の空を見た。明るさの残る石壁の向こうで、見張りの旗がゆっくり揺れている。
「私ね」
やがて、彼女は視線を空へ向けたまま言った。
「子どもの頃、一度だけ補給が完全に止まったことがあるの」
木匙を動かすイルネリオの手が止まる。
「南の小さな駐屯地だった。冬の終わりで、道がぬかるんで、王都からの荷車が二週間来なかった。兵も家族も、皆、待てば何とかなると思ってた。でも、三日目を過ぎたあたりから、鍋の中身がみるみる薄くなって……」
彼女はそこで一度、息をのみ込んだ。
「子どもだった私は、守られる側でしかいられなかった。大人が譲り合ってるのも、譲り合いきれなくなっていくのも見てた。空腹って、腹だけじゃなくて、声の高さまで変えるのよ」
その声はいつもの指示の声より低く、ひどくまっすぐだった。
「そのとき、最後に配られた薄いスープを飲んで、悔しかった。怖かった、じゃなくて、悔しかったの。どうして私は数えるだけの側にいないんだろうって。どうして、足りるように考える側に回れないんだろうって」
イルネリオは何も挟まなかった。
慰めの言葉を急いで入れれば、彼女がようやく出した過去の形を崩してしまう気がしたからだ。
レオニナは苦く笑った。
「それで今、守る側へ回ったはずなのに、今度は別の怖さがある。私が倒れたら、荷の流れも、人の流れも、まとめて崩れるんじゃないかって」
彼女の袖口には、今日ついた炭の汚れがまだ残っている。壁へ目標を書き、倉庫を走り、誰かに任せる前に自分で一袋担いでしまう腕だ。その腕が、今は水差しを握る力をほんの少しだけ強くしていた。
イルネリオは木匙を置き、鍋台の脇へ立った。
「崩れません」
短く言うと、レオニナがようやく彼を見た。
「私が勝手に平気だと思い込んでいたなら訂正します。あなたが抱えすぎたら、手を伸ばします。鍋でも帳場でも、地下でも」
「……あなた、そういうことを真顔で言うのね」
「真顔です」
「知ってる」
そこで彼女は、やっと少し笑った。肩の力が、ほんのわずか落ちる。
イルネリオもつられて息をつく。
「私もです」
「え?」
「私が抱えすぎていたら、手を伸ばしてください」
言い終わってから、妙に胸がうるさく鳴った。鬼面の紋とは違う熱だった。
レオニナは返事の代わりに、水差しを置き、鍋の柄へ手を添えた。
「じゃあ約束」
その手は働き慣れていて、指先に小さな傷がいくつもある。
「片方が背負いすぎたら、もう片方が黙って奪う。遠慮はなし」
「奪うんですか」
「言っても聞かなさそうだから」
「たしかに」
二人とも、今度は同じタイミングで笑った。
屋台の表で、ニコリナの声が弾んだ。
「おや、鍋の裏でずいぶんやわらかい顔してるじゃない。味見より先に何を煮込んだの」
「余計なことを言うなら、あなたの椀だけ豆を倍にします」
レオニナが振り返らずに返すと、ニコリナはけらけら笑う。
「じゃあ私は恋の香草を追加で所望しようかな」
シャルヴァが鍋台を締め直しながら肩をすくめた。
「香草はともかく、今夜は火を強くしすぎるなよ。客が増える」
空はようやく藍へ沈み始めていたが、城壁の上にはまだ明るさが残っていた。長い日の終わりは、いつもより少し遅い。
その遅さが今夜だけはありがたかった。イルネリオは椀を並べながら思う。北の谷から鬼が来るまでの日数は減っていく。それでも、こうして並んで立ち、どちらかが重くなれば片方が手を伸ばすと口にできたことは、守りの一つなのだと。
最初の客へ煮込みを渡すと、湯気がまた夕方食堂の記憶に似た匂いを運んだ。
けれどもう、懐かしさだけではなかった。
目の前の長椅子に座る兵も、仕事帰りの職人も、鍋をのぞき込む子どもも、この街の今夜そのものだ。レオニナが隣で帳面を開き、イルネリオが鍋を混ぜる。その距離が昨日より近く感じられることを、もう言い逃れはできない。
日が長くなるたび、思い出すものがある。
そして今は、その続きを一緒に作りたい相手がいるのだと、イルネリオは湯気の向こうではっきり知った。