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「……オペ室」
掴まれた手へ視線を落とした彼女は、数秒の間を置いたのち、雨音に消されそうな小さな声で答えた。
「オペ室……? こんな時間に何しに行くの?」
「あの場所が好きなんです……」
「オペ室が好き……?」
「亜紀先生には分かるはずない。……この手、離してください。今夜は帰りたくないんです」
楓ちゃんは濡れた地面へ視線を落とし、絞り出すような低い声で言った。
「楓ちゃん……」
一体、何があったの?
うつ向く彼女を見つめ、私は言葉を失った。
いつも愛らしい笑顔を向けてくれる彼女が、何を抱えているのか分からない。
冷えきった彼女の手から伝わる震え。
寒さのせいだけじゃない。
まるで、何かに怯えているようだった。
彼女を見つめたまま、私は深く息を吸った。
「楓ちゃん、オペ室へ行く前に、ちょっとだけ私に付き合ってよ。
私のお気に入りの場所に寄ってほしいの」
彼女の腕を離し、そっと手を繋いだ。
重ねたその手は、あまりにも冷たく、自分の体温までみるみる奪われていくような気がした。
ぎゅっと手を握り、院内の灯りが漏れる扉へ向かう。
「楓ちゃんが病棟にいた頃、飲み会の帰りに二次会のカラオケまで、こうしてみんなで手を繋いで歩いたよね」
「………」
「あの頃は、本当に楽しかったよねぇ」
私に手を引かれる楓ちゃんは何も答えない。
ふと振り返ると視線が重なった。
感情の読めない瞳をした彼女は、すっと私から目を逸らした。
楓ちゃんを連れて入ったのは、健診課がある東棟地下一階だった。
「……ここがお気に入りの場所ですか?」
楓ちゃんは一歩踏み入れた足を止め、拍子抜けしたような表情で室内を見渡した。
二十畳ほどの広さがある部屋には、長いテーブルに数台のパソコンが並び、壁に取り付けられたモニターには幾人もの心電図波形が映し出されている。
「健診課の医局ですか?」
「ここはデータ解析室。
私にとって院内で唯一の安らぎの場所。ナースを招待したのは、楓ちゃんが初めてよ」
私は奥の部屋から持ち出したバスタオルを、扉の前で立ち尽くす彼女へ差し出した。
「こんな機械に囲まれた部屋が安らぎの場所?
夜間は人気もない、この健診棟がですか?」
楓ちゃんは差し出されたタオルを受け取ると、再びモニターへ視線を向け、顔をしかめた。
「誰も来ないからいいの。すごーく仕事が捗るの。
当直室代わりにも使ってるから、身の回りの物は揃ってるし、お菓子もいっぱいあるよ」
私は得意げに言いながら、机の引き出しから箱を取り出した。
「ほら。チョコもクッキーも、フィナンシエもあるよ」
数種類のお菓子が詰まった箱を開け、手招きをしながら楓ちゃんをテーブルへ誘った。
「……このモニターに映っているのは、どこの患者さんの心電図ですか」
当直用に置いてある私の私服へ着替えた楓ちゃんは、温かなコーヒーカップを両手で包み込んだままモニターを見つめた。
「ああ、それは私が担当してる入院患者さんの波形。
健診課長にお願いして、こっちでもモニター管理できるよう設定してもらったんだ」
私は椅子にもたれかかり、回転椅子をゆっくり揺らしながら微笑む。
楓ちゃんは何も答えず、等間隔に刻まれる心電図の波形へ視線を落としていた。
「……亜紀先生は、ずっと変わらないですね。羨ましい……」
小さな呟きが耳に届いた。
「羨ましい?……どうして?」
コーヒーをかき混ぜるスプーンの動きを止め、まだモニターを見つめたままの横顔へ問いかける。
「亜紀先生は、欲しいものは何でも手に入れてる。
ドクターとしての地位も、名誉も、人からの信頼も。そして、恋愛も……」
「えっ……何言ってるの。そんなことないよ。
地位も名誉もだなんて大袈裟。
私なんかより、もっと努力をして認められてる優秀なドクターは、たくさんいるじゃないの」
「どんなに努力したって、報われない人だってたくさんいます!」
彼女の強い言葉が、私の声を遮った。
「楓ちゃん……」
牙を剥くような彼女の反応に愕然とし、私は目を見張った。
これが、あの楓ちゃん?
何をそんなにムキになってるの?……
酔って支離滅裂になってるの?
「……今日の楓ちゃん、やっぱり変だよ。
仕事で何かあった? それとも彼氏と喧嘩でもしたとか?」
彼女を宥めるように、私は柔らかな声で問いかけた。
「……」
彼女の表情に陰りが走り、私から逃げるように視線を逸らした。
「あ……ごめんね。別に話したくないならいいの。
初めて楓ちゃんの激しい一面を見た気がして、ちょっと驚いちゃった。……大丈夫?」
彼女の様子に違和感を覚えながらも、努めて明るい声で問いかけた。
「……そうですね。ただのくだらない痴話喧嘩です。
最初から、私は愛されてませんから……」
小さく震える唇から、今にも消えてしまいそうな声が零れ落ちた。
コメント
1件
亜紀先生が楓ちゃんをオペ室から引き離して、自分の「安らぎの場所」に連れて行くシーン、すごく良かった…!優しく手を繋いで連れて行くところ、亜紀先生の人柄がにじみ出ててほっこりしたのに、楓ちゃんの「最初から愛されてない」って言葉が切なすぎて胸がギュッてなった😭💔 何があったんだろう…次話が気になりすぎる!!
#狂愛
柏木さくら
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#執着
猫とろ
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桃下結衣
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