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「えっ……?」
掠れた最後の言葉が聞き取れず、私は眉を寄せた。
「いいえ……彼氏との、ただの痴話喧嘩って言ったんです。
亜紀先生は今からお仕事ですよね。
ご迷惑をお掛けしました。私は帰ります」
楓ちゃんは残っていたコーヒーを飲み干すと、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「楓ちゃん、帰るって……」
驚いて目を瞬かせる。
「大丈夫です。ちゃんと家に帰りますから」
抑揚のない声で言い置き、扉へ向かって歩き出した。
「オペ室に寄っていくの?」
「……はい。少しだけ。
亜紀先生、このお借りした服は先生のご自宅にお届けします」
楓ちゃんは扉の前で足を止め、振り返ることなく言った。
「私の家に? わざわざそんな……病院で渡してくれればいいよ」
「いいえ。亜紀先生へのお祝いも一緒にお届けしますから」
楓ちゃんは掠れるような低い声でそう言うと、ゆっくりと振り返った。
離れた場所から見ると、小柄な彼女が着る私のトレーナーはやけに大きく、どこか不釣り合いに見えた。
「私へのお祝い……?」
首を傾げて問い返す。
「先生の書いた論文が、佐橋教授から高い評価を受けたと聞きました」
「えっ、論文……?」
「やっぱり。亜紀先生は素晴らしいドクターですね」
淡々とした口調でそう言うと、驚く私へ鋭い視線を向け、すぐに口元だけを引き上げて笑った。
「おめでとうございます。夫婦揃って優秀ですね。本当に尊敬します」
笑みを浮かべながら告げる。
けれど、その口調は言葉とは裏腹に、不穏な響きを帯びていた。
彼女の視線に射抜かれ、背中をぞくりと冷たいものが走る。
「ありがとう……」
私は息を飲み、短く礼だけを返した。
「では、亜紀先生のご自宅に伺ってもいい日を教えてくださいね。
楽しみにしてますから……」
淀みなく言って、にっこりと微笑む。
「う、うん。連絡するね。帰り道、気をつけて」
戸惑いを隠すように笑みを返した。
ややふらついた足取りで扉を開ける彼女。
再びその背中を引き留めることのできない私は、遠ざかっていく小さな足音だけを聞いていた。
――
昼間に撮影した胸部CT画像を見つめながら、私は黙々とパソコンに向かっていた。
夜間は人気のないデータ解析室。
モニターから聞こえる心拍音と、キーを打つ音だけが静かな室内に響いている。
「はぁ……やっと終わった」
プリントアウトした数枚のレポートを手に取り、大きく息を吐く。
とりあえず、今日はここまでにしよう。
一通り確認したレポートを机へ置き、椅子にもたれて大きく背伸びをした。
机の端によけていたカップへ手を伸ばし、冷めたコーヒーを口に含む。
……楓ちゃん。ちゃんと家に帰ったかな。
香りの薄れたコーヒーを喉へ流し込み、細かな傷が刻まれた床へ視線を落とした。
――どうして、楓ちゃんが私の論文のことを知っているんだろう。
床を見つめたまま、眉を寄せる。
医局でも、まだ公表されていない。
知っているのは遼と、麗香だけのはず。
……麗香がナースステーションで話した?
……いや。麗香は口が重い。ましてや、私のことを軽々しくナースへ話すはずがない。
……遼がオペ室で私のことを話題にした?
あの遼が?
いや、それこそ有り得ない。
楓ちゃんは、一体誰から聞いたの?
それに……
あの楓ちゃんの言動。
そして、私を見るあの目つき。
まるで憎しみを宿したような視線。
どうして……
アルコールのせい?
「楓ちゃんって、そんなに酒癖が悪かった?」
眉間に刻んだ皺がさらに深まる。
「そう言えば……麗香も言ってたな。楓ちゃんの雰囲気が変わったって……」
首を傾げ、誰に聞かせるでもない呟きを漏らした。
化粧が変わって……
雰囲気が変わって……
「喧嘩した彼氏って、あの彼氏だよね……」
独白を重ねた瞬間、以前から感じていた違和感が脳裏をよぎった。
彼氏の話を持ち出した時の彼女の反応……
遼と外食に行く直前、私と麗香に見せたあの表情……
私の中で、一つひとつが繋がっていく。
「まさか……」
心臓がひときわ大きく脈を打った。
輪郭のぼやけたままの胸騒ぎ。
まさか……
「楓ちゃんと遼の間に、何かあるの?」
俄には信じ難い言葉が、口から滑り落ちた。
そんな……
まさかね。
遼は楓ちゃんの顔しか知らないと言っていた。
仕事のできないスタッフには興味がない、とも。
それに――
楓ちゃんは私の友達。
「ずっと仲良くしてた友達なんだから。有り得ない。
だって楓ちゃんは……」
否定する言葉とは裏腹に、心臓は不快なほど早鐘を打ち続ける。
「だって、楓ちゃんは私の……」
『友達』
もう一度その言葉を口にしようとした瞬間、彼女が私へ向けたあの視線が脳裏に蘇り、背中を悪寒が走った。
楓ちゃん……
私を憎んでるの?
……遼が好きなの?
全身を巡る血液が、どくどくと大きな音を立てる。
詰まりそうになる息を吸い込んだ次の瞬間、
「そっ……そんなっ!」
床を蹴るように椅子から立ち上がり、部屋を飛び出した。
コメント
1件
「亜紀先生のご自宅に伺ってもいい日を教えてくださいね……楽しみにしてますから」って、あの微笑みが怖すぎます……。亜紀先生の胸の内で少しずつ形になっていく疑念の描き方が本当に巧みで、心臓がぎゅっとなりました。楓ちゃんの視線の変化と、彼女が誰から論文の情報を聞いたのか──すべてが少しずつ繋がっていく感覚が、読んでいるこちらにもリアルに伝わってきて、ゾクゾクしました。次が気になりすぎます🤍
#せつない恋
Jasmine
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桃下結衣
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