テラーノベル
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「こっちの棚、想一郎の本だけで埋まりそう」
友香が段ボール箱から三冊目の鉄道年鑑を取り出すと、床に座っていた想一郎が困ったように笑った。
「半分は処分するつもりだったんだけど」
「その台詞、先月も聞いた」
「じゃあ三分の一」
「減ってないじゃない」
新居には、まだカーテンも届いていない。ダイニングテーブルもなく、二人は引っ越し用の箱を机代わりにしてコンビニのプリンを食べていた。
一週間後の金曜日に婚姻届を出す。
その日付は二人で決めた。友香の鞄には、新居の鍵と、二人の署名が入った婚姻届がクリアファイルに挟んである。
「名字変わったら、会社の手続き面倒だなあ」
そう言いながらも、友香の頬は緩んだ。
想一郎はスプーンを置き、友香を見た。
「友香」
「なに?」
返事がない。
普段の想一郎なら、話す順番まで頭の中で組み立ててから口を開く。そんな人が、言葉を探すように視線を落としている。
「どうしたの?」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
想一郎は一度だけ息を吸った。
「婚姻届、出すのを待ってほしい」
友香は笑いかけたまま動けなかった。
「……何を?」
「来週、出す予定だっただろ。それを、少し待ってほしい」
「聞こえてる。意味が分からないの」
部屋の隅で冷蔵庫のモーター音だけが鳴っていた。
「少しって、いつまで?」
「まだ分からない」
「理由は?」
想一郎は答えない。
友香は立ち上がった。
「ねえ。ほかに好きな人ができた?」
「違う」
即答だった。
「じゃあ、私と結婚したくなくなった?」
「違う」
「なら何?」
想一郎は唇を結んだ。
友香は、人と揉めることが嫌いなわけではない。ただ、揉める必要がない相手とは円満にやっていきたいだけだ。
けれど今は違う。
逃げられたまま笑って済ませる気はなかった。
「想一郎。私、結婚したいよ」
「分かってる」
「分かってる人が、どうして私に相談もしないで延期を決めるの?」
「今の俺と結婚したら、君まで巻き込む」
ようやく出てきた理由は、それだけだった。
「何に?」
「今は言えない」
「仕事?」
想一郎の目がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
「仕事なんだ」
「友香」
「会社で何かあった? 異動? トラブル? 借金でも背負わされるの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ説明して」
「まだできない」
友香はテーブル代わりの箱を掌で叩いた。
「だったら、私の人生まで勝手に決めないで」
箱の上の空になったプリン容器が跳ねた。
想一郎は黙ってそれを見た。
「『巻き込みたくない』って言えば優しいことをしてるつもり? 私は一週間後にあなたと結婚するつもりだった。仕事も住所変更も名字も、その先の生活も、自分で考えて決めたの。それをあなた一人が『待つ』って決めて、私は従えばいいの?」
「そういうつもりじゃない」
「じゃあどういうつもり?」
答えはなかった。
友香は左手の指輪を握った。
外したくはなかった。
腹が立っているのに、嫌いにはなれない。そのことが余計に腹立たしい。
「別れたいわけじゃないんだよね?」
「それだけは違う」
想一郎が初めて顔を上げた。
「友香と結婚したい」
「なら、ちゃんと話して」
「……ごめん」
その謝罪は、説明の代わりにはならなかった。
翌朝、友香が目を覚ました時、想一郎はいなかった。
スマートフォンには短いメッセージが一件だけ残っていた。
『星見線の沿線に行く。しばらく新居には戻れない。本当にごめん』
「星見線?」
聞き覚えはあった。想一郎が勤める鉄道会社の路線の一つだったはずだ。
電話をかけた。
呼び出し音が続き、留守番電話に切り替わる。
「何なの、もう……」
友香はスマートフォンをソファへ放った。
怒りのまま部屋を片づけ始める。じっとしていたら、想一郎の「ごめん」ばかり頭の中で繰り返しそうだった。
彼の書類が入った箱を閉じようとして、一冊の古いノートが滑り落ちた。
黒い布張りの表紙。角は擦れ、紙は黄ばんでいる。
表紙には、手書きで題があった。
『鉄の道に刻まれた未来』
友香は眉を寄せた。
開く。
知らない駅名が並んでいた。
潮見。
白峰口。
南凪。
星見温泉。
どれも星見線の駅らしい。
横には乗車人数らしき数字、店の名前、病院、学校、時刻。そして、ところどころに小さな星印が書かれている。
「これ……想一郎の字じゃない」
もっと古く、癖の強い筆跡だった。
最後までめくる。
そこで友香の指が止まった。
最終ページだけが、根元から破り取られていた。
紙の切れ端が綴じ目に残っている。
なぜ、ここだけ。
昨夜の想一郎の顔が浮かぶ。
『今の俺と結婚したら、君まで巻き込む』
友香はノートを閉じた。
待てと言われたから待つ。
そんな選択だけはしたくない。
想一郎を追いかけて、結婚してくれと頼みに行くのでもない。
自分との結婚を、自分抜きで止めた理由を確かめる。
それから、結婚するかどうかを自分で決める。
友香は寝室へ行き、旅行用の小さなバッグを出した。
着替えを詰める。
黒いノートを入れる。
最後に、クリアファイルから署名済みの婚姻届が透けて見えた。
数秒迷って、それもバッグの底へ入れた。
昼前。
友香は一人で駅のホームに立っていた。
案内表示には、星見線へ接続する列車の発車時刻が出ている。
発車ベルが鳴った。
「待ってなんかあげない」
誰に聞かせるでもなく呟き、友香は開いた扉の向こうへ足を踏み出した。
コメント
1件
『婚姻届を出さないで』、一気に読んじゃいました…! 友香の「待ってなんかあげない」って台詞、すごく刺さりました。結婚を決めたのに「待って」と言われて、理由も言わずに消える想一郎。彼の事情も気になるけど、友香が自分で決めて追いかける姿勢がカッコよくて✨ それにしても、あの破り取られたノートの最終ページ…何が書いてあったんだろう。続きが気になりすぎます🌙 素敵な作品を読ませていただいて、ありがとうございます。友香の行く末、ちゃんと追わせてください。
50
1,722
紫倉 紫
457
パン
1,204