夕方、仕事を終えた美宇は職場を後にした。
とぼとぼ歩きながら、これからのことを考える。
(もう、ここにはいられない……)
自然と『退職』の二文字が頭に浮かぶ。
スクールに勤めて五年。潮時かもしれないと思う一方で、圭の突然の仕打ちは今でも理解できなかった。
(社長令嬢と婚約するつもりだったなら、どうして私に声をかけたの?)
美宇は、圭に初めて食事に誘われた日のことを思い出していた。
あの頃の圭は、誠実そうに見えた。
だから、戸惑いながらも、美宇はその誘いを受けたのだ。
(最初から遊びのつもりだったってことよね……)
特に美人でもなく社交的でもない自分がなぜ誘われたのか、美宇には分からない。
(男に慣れていないから、手軽に遊べて後腐れがない……そう思われていたのかも……)
美宇は、自分なりの答えにたどり着いた。
その瞬間、涙があふれる。
こぼれ落ちる涙を両手で必死に拭いながら歩き続けていると、すれ違う人々が、不思議そうに彼女を振り返った。
恥ずかしさをこらえながら、美宇は一旦街路樹の陰に立ち止まり、ハンカチで涙を拭った。
そして、再び歩き出す。
人目が気にならなくなると、だんだんと気持ちも落ち着いてきた。
やがて隣駅の近くに差しかかろうとしたとき、美宇の視線がある看板をとらえた。
『青野朔也陶芸展 ~オホーツクブルーの軌跡~』
その瞬間、高校時代の記憶が美宇の脳裏に鮮やかによみがえった。
(あっ!)
それは、高校二年のときに見た名前と同じだった。
『青野朔也(あおのさくや)』
その名前は、今でもはっきりと覚えている。
当時、美大受験を控え、美術予備校に通っていた美宇は、どの科を受験すべきか悩んでいた。
行き詰まりを感じていたある日、初めて予備校をサボり、街をさまよっていた。
そのとき、今と同じ看板を見つけたのだ。
それは、北海道在住の陶芸家の名前だった。
美宇は、あのときの情景を思い返した。
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制服のまま洒落たビルのガラス扉を開けると、そこは小さなギャラリーだった。
中に入った美宇に、女性が声をかけた。
「ようこそ。ゆっくりご覧くださいね」
女性は、目を引くほど美しかった。
ウェーブのかかった長い髪に、エレガントなワンピース姿。丁寧にネイルが施された美しい手で、美宇にパンフレットを渡す。
(綺麗な人……)
思わず見とれてしまうほどだった。
そんな美宇に、女性はにっこりと微笑み、優しくこう言った。
「高校生?」
「あ……はい。高2です」
「美大を目指しているのね?」
女性は、美宇が持っていたカルトンを見ている。
「はい」
「ふふっ、じゃあ、ご案内するわ」
そう言って、女性は美宇を作品の前へ案内し、説明を始めた。
彼女の説明によると、青野朔也という作家は北海道在住で、「オホーツクブルー」という釉薬(ゆうやく)を独自で編み出し、作品を制作しているという。
美宇はその作品を目にした瞬間、思わず息をのんだ。
「わぁ……なんて綺麗なの!」
そのつぶやきに、女性が笑顔を浮かべた。
「素敵でしょう? この色を生み出すまで、彼は何年も試行錯誤を重ねたのよ」
「本当に美しい色ですね。『オホーツクブルー』って、北海道の海の色ですか?」
「そう。斜里町っていう場所よ。知床って言ったらわかるかしら? 北海道に行ったことはある?」
「いえ……」
「だったら、いつかぜひ行ってみて。自然が豊かで星空がとても綺麗な、心が洗われるような場所よ。もし美大に入って創作に悩んだら、きっとその悩みも吹き飛ばしてくれるはずだから」
女性はそう言って穏やかに微笑んだ。
すべての作品の案内を終えると、女性は美宇に名刺を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『アートプロデューサー 今井香織(いまいかおり)』
「私、今井香織と申します」
「今井……さん……」
「あなたのお名前は?」
「あ……七瀬美宇です」
「みうちゃん? かわいらしいお名前ね? どんな字を書くの?」
「美しいに、宇宙です」
「素敵な名前ね」
そう言って、香織という女性は優しく微笑んだ。
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そのとき、クラクションの大きな音が響き、美宇はハッと我に返る。
それから、看板をもう一度じっと見つめると、あのときと同じように迷わずギャラリーの中へ足を踏み入れた。
(『青野朔也』……やっぱり、あのときと同じ人だわ……)
美宇は中に入ると、あのときの女性・今井香織の姿を探して会場を見回した。しかし、彼女はいなかった。
代わりに、数人の男性が立ち話をしていた。
(あの中に陶芸家の青野さんがいるのかな?)
そう思いながら、美宇は受付でパンフレットを受け取り、静かに作品を見始めた。
最初の作品を目にした瞬間、思わず息をのんで足を止める。
その作品は、さまざまな青色が溶け合い、深みのある美しい『オホーツクブルー』を放っていた。
以前見たものよりも、さらに洗練されているように感じられた。
(すごい……こんな色、どうやって出すんだろう……)
どの作品も、芸術的なセンスがあふれていた。
大型の壺や皿、花器には、すでに『売約済』の札が貼られている。
それらをゆっくり眺めながら、美宇は会場の奥へ進んでいった。
そこには、日常使いの器も並んでいた。芸術的な美しさはそのままに、どれも使いやすそうで、手に馴染むような温もりが感じられる。
作品を一通り見終えた美宇が、男性たちのそばを通り過ぎたとき、ふとこんな会話が耳に入ってきた。
「青野君はもう帰っちゃったのか」
「はい。青野さんは、こういう場所が苦手なんですよねー」
「ははっ、都会嫌いの青野くんらしいな」
(なんだ……作者じゃなかったんだ……)
少し残念な気持ちを抱えながら、美宇は静かに会場を後にした。
駅へ向かう道すがら、彼女の胸にはある思いが静かに芽生えていた。
(スクールを辞めよう……そして、陶芸の修行を、もう一度いちから始めよう)
そんな強い意志が自分の中から湧き上がってきたことに、美宇は驚いた。
実は、講師を辞めて陶芸の道へ進むことは、ずっと心の奥で考えていたことだった。
そのために、少しずつ情報も集めていた。
そんな矢先に圭との交際が始まり、その思いに蓋をしてしまった。
(新天地を探して、もう一度やり直したい)
泣き腫らして少し赤くなった目をそっとこすりながら、美宇は駅の階段を一歩ずつ降りていく。
その足取りには、揺るぎない決意が込められていた。
コメント
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ターニングポイントになりそうだね🎵 やりたいと思った事をやってみたらいいと思う。 頑張ってほしいな
美宇ちゃんに運命の出会いの予感✨ オホーツクで新規一転、夢を追いかけて頑張って!新天地できっと幸せ掴めるはずーーー🥺 青野朔也さんとの出会いにワクワク😍
今の環境を変えたいって時にギャラリーへの訪問。これは偶然ではないよ導かれたのだよ✨ 「オホーツクブルー」を作った青野さんという人物も気になるね。元々陶芸がしたかったって本心がわかった。 あとは行動に移すのみദ്ദി ˃ ᵕ ˂ ) ✧