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きっかけは、紙一枚だった。白い封筒に、地図が印刷された薄い紙。赤いペンで、病棟跡への矢印と、短い言葉が書き込まれていた。
夜になると、ガラスに映らない人影が出る
差出人の名はない。けれど筆圧には見覚えがあった。
根津という男。数か月前、別の廃墟で一度だけ顔を合わせた。互いに名乗るより早く、彼は古いフィルムカメラをぶら下げて「面白い噂がある」と言った。声の調子は平らだが、奥に“自分は見える側だ”という自負の硬さが潜んでいる。その硬さは、紙の赤にまで移っていた。
私は迷わなかった。
退屈を払うための歩幅には、こういう地図がよく合う。それに──硝子張りの廊下の感触が、どこかで私の足裏を覚えていた。夢か現実か判別のつかない景色。片側に連なる窓、反対側に閉ざされた扉、平らな床の冷たさ。いつの記憶か、誰の記憶か、重要ではない。
夕暮れ前、私は根津と落ち合った。
市の外れ、住宅地に飲み込まれかけた土地の端に、その二階建ての精神科病棟は残っていた。フェンスは錆び、門扉は外れ、開いた口のようにこちらを向く。
敷地に一歩入ると、背丈ほどの草が白線の消えかけた駐車場を覆い、アスファルトの割れ目からは細い木が伸びていた。風が吹くたび、草の穂が互いに擦れ、乾いた音を立てる。
夕日の角度は低すぎず高すぎず、影は長く、しかしまだ温度を持つ。影が温度を持つ時間帯だけが、人を油断させる。
外壁は灰色、塗装は剥離し、コンクリートの地図が露出している。
窓は多くが割れ、破片が足元で鈍く光った。
だが──南面に伸びる長い廊下だけは違う。そこは全面ガラス張りで、硝子の大半が無傷のまま残っていた。外から覗くと内部は薄暗く、光が拒まれているように見える。
「ここです」
根津が顎で示した。彼は首からカメラを下げ、ファインダーに片目を沈める。フィルムが巻き取られる微かな音が、草のざわめきの間に紛れた。
私は廊下の外側をなぞるように歩いた。
ガラスの外側には細い通路があり、そこから内部の構造が見渡せる。片側がガラスの壁、反対側に規則正しく並ぶ病室の扉。夕日がガラスを透過し、床へ帯状の光を落としている。光は等間隔に敷かれた板のように連なり、奥へ行くほど薄く、途絶え、闇に飲まれていた。
近づくにつれ、空気の温度が一段階下がる。
風の匂いから土の湿りが抜け、乾いた紙の匂いが混じる。音は減り、靴底と砂の摩擦が個人的になる。これが内部の温度だ、と身体が先に理解する。
引き戸は半ば外れていた。
手で押すと、砂を噛む音を立てて数センチ滑る。内側の空気は薄く涼しく、鼻の奥に古い石膏の粉がひっかかる。
入った瞬間、音の質が変わった。外の風は膜で鈍り、靴音は壁に寄り添い、天井から落ちる微かな粉の気配が耳朶に触れる。
天井には蛍光灯がなく、剥き出しの配線が垂れている。壁紙はところどころ剥がれ、下地の石膏が覗く。床は平らだが、微細な砂が薄く乗っている。足を置くたびに擦過音が生まれ、尾を引く。
ガラスは古く、表面に無数の傷が走っている。傷のせいで外景はほんの少し滲み、住宅や樹木が水彩画の境界のように揺れて見えた。
私はガラスに近づき、鼻先で息を吐いた。曇りは一瞬で消える。ガラスが冷えているのか、私の息が弱いのか。曇らないものは、存在の証明に向かない。
根津はカメラのシャッターを律儀に刻み、時折、レンズを交換した。
「広角だと歪むんですよ。ここ、ガラスが長すぎて」
「歪むほうが、本当かもしれない」
彼は笑わない。笑うとブレる、と身体が知っている人間の顔だ。
私はガラスの反射を確かめた。
そこには私と根津が映る。影の輪郭は薄く、光の帯に切り分けられ、床の明暗に貼り付けられる。
光と影の関係は単純だ。真っ直ぐで予測可能。だから、逸脱したとき、逸脱そのものが音になる。
廊下の前半は、ただ冷たく、ただ静かだった。
前半が静かすぎるとき、後半はたいてい忙しい。
中程まで来たとき、視界の端が揺れた。
右──ガラスの向こうの外景ではない。ガラス自体でもない。ガラスに映らない側、つまりこちらの廊下の空間の、その、反射に関与しない領域で、何かが動いた。
私は足を止めた。
外を眺めるふりをして、耳の奥だけを硬くする。
根津は気づかない。カメラの巻き上げ音は、規則正しく、健康的だ。
“映らない影”は、私と同じ背丈か、少し低い。
歩幅は小さく、体をわずかに左右に揺らす。
光の帯に足を置かず、影の帯だけを選んで進むように見える。
その歩き方は、記憶の中の「さえ」に似ていた。
似ているという感覚は、事実を語らない。ただ、心拍の速さを増やす。
私はガラス面と床の反射を同時に追った。
普通なら、床の影とガラスの反射は互いに呼応する。
だが、その影は床には影を落とすのに、ガラスには映らない。
埃が光に舞い、影は薄くなり、また濃くなる。
呼吸のリズムに合っている気がした。
こちらの呼吸ではない。向こうの呼吸だ。
「何か、いた?」
根津の声が背中に触れた。
私は首を横に振る。
否定は便利だ。肯定より軽い。軽いものは、長く持てる。
映らない影は、一定の速さで廊下の奥へ向かった。
私の歩みに合わせず、根津のシャッターにも関係しない。
廊下の端に近づくにつれ、光は薄れ、影の輪郭は逆にくっきりした。
輪郭がくっきりするのは、存在が強くなるからではない。背景が退くからだ。
突き当たりは、古い木製の扉で閉ざされていた。
ペンキは剥がれ、縁に指でなぞったような跡が複数走る。鍵は外され、ノブは鈍く光っている。
影は扉の前で足を止め、わずかに首を傾げたように見えた。
その角度に、喉の奥が反応する。
傾げられた首は、問いの形だ。
問いは、開く側にだけ発生する。
影は、音もなく、中へ消えた。
扉は動かない。蝶番は鳴らない。
扉が開かないまま、誰かが通り抜ける──廊下では、こういう算数がよく成り立つ。
根津が前へ出て、ノブを握り、回した。
金属の軋みが、乾いた空気にひっかかる。遅い音だ。
扉は、抵抗を少し残しながら開いた。
内部は暗く、冷たく、乾いていた。
埃の匂いが強い。
床一面に白い粉が積もり、足を入れれば跡が立つ。
その埃の上に──一つだけ、崩れていない足跡があった。
小さい。爪先が内向き。深さは均一。
私は喉の内側で数字を転がし、声に出した。
「長さ二十三センチ弱、幅八センチ、深さ約四ミリ」
根津が半分笑い、半分警戒する目をした。
「測ってないだろ」
私は答えない。
答えないという行為は、答えることより多くを伝える。
「子ども?」
「足は、子どもに似ている」
「似ている、ね」
似ている、という言葉は、嘘に優しい。
私は足跡の縁に腰を落とし、崩さない程度に息を吐いた。
粉がわずかに揺れ、縁の角が丸くなる。
輪郭は、すぐに甘くなる。甘い輪郭は、写真に強い。
根津が部屋を一周して撮った。
フィルムは限りがある。限りがあるものは、慎重に使われる。
慎重さは、対象を傷つけない代わりに、核心を通り過ぎる。
私は足跡から目を離さなかった。
最初に見た形と、見続けた形が、少しだけ違って見えた。
違って見える、という事実は、見る側の時間を証明する。
時間は、いつも見る側にだけある。
私はポケットから紙片を取り出し、縁に当てた。
測っていない、と言いながら、測るふりをする。
ふりは、真実より忠実だ。
紙片の端が粉に触れ、薄い線が残った。
線はすぐ崩れた。
崩れる線は、嘘に向く。
私は紙片をしまい、指の腹についた粉の量を舌で確かめた。
味はない。匂いもない。
ない、と言い切ると、少しだけ楽になる。
部屋の四隅に薄い風が動いた。
風はどこから来たのか。扉の隙間か、壁の割れ目か。
考えても、風は答えない。
考えないと、風は増える。
増えた風は、音になる。
音は──遠い靴音に似ていた。
廊下の方向から、誰かがこちらへ近づくときの、一定で、軽い音。
私の靴音ではない。根津の靴音でもない。
私と根津は、その音があるという一点でだけ、完全に一致した。
「戻る?」
「戻る」
二音のやり取り。これ以上の議論は要らない。
扉を閉めるとき、蝶番が短く鳴き、粉がひとしきり舞った。
舞った粉の中に、小さな影が一瞬だけ浮いた。
影の形は、足跡に似ていた。
似ているものばかりが、ここにはある。
廊下に出ると、光の帯は薄くなっていた。
夕日の角度が少し変わり、ガラスの傷が反射を散らす。
ガラスは相変わらず古く、しかし、さっきより冷えている気がした。
ガラスに顔を寄せ、息を吐いた。曇りはすぐに消えた。
根津はカメラを一旦しまい、代わりにスマートフォンを取り出して数枚撮った。
「保険」
彼は短く言い、画面を一切見ずにポケットに戻した。
保険という名の記録は、たいてい、後で嘘の土になる。
私は歩き出した。
ガラスの外は住宅地で、子どもの声が薄く混じる。
声は廊下では遠く、床では近い。
床は音を吸い、耳の奥に押し返す。
歩幅を変えると、床の擦過音が変わる。
音は形になる。
形になった音は、ここではすぐに薄れる。
中程を過ぎたあたりで、視界の端がまた揺れた。
映らない影は、こちらを見たのかもしれない。
見た、という感覚は、たいてい錯覚だ。
だが、錯覚のほうが心拍を確実に上げる。
心拍が上がると、視界が狭まる。
狭まった視界には、影がちょうどいい。
私は立ち止まらず、歩幅だけ短くした。
根津は後ろで足を止め、そこから動かない。
動かない人間は、良い観測者だ。
観測者が動かないとき、対象か背景が動く。
この廊下では、背景が動くことはない。
動くのは、対象だけだ。
影は光の帯に触れず、扉のない側へ寄らず、窓のない側へ寄らず、廊下の中央だけを選ぶ。
廊下の中央は、どこにも属さない場所だ。
属さない場所では、罪も功も薄まる。
薄まったものだけが、長い。
私は歩き続け、入口の引き戸の少し手前で止まった。
外の風が、ここまで届くことはない。
届くのは、声だけだ。
遠くの住宅地から、誰かが名前を呼ぶ声がした。
名前は、外側でしか正しく響かない。
ここでは、どの名も短くなる。
一度、外へ出た。
外の空気はまだ温度を持ち、草の匂いが強い。
風鈴が二つ、建物の陰で音を作っていた。
音がある世界は、安心する。
安心は、観察を鈍らせる。
鈍らせるものを、私は時々、意図的に混ぜる。
鈍っていない観察は、たいてい、誰かを傷つける。
根津は煙草に火をつけ、一本を半分までで揉み消した。
「戻る?」
「戻る」
廊下は、一度出ると戻り方を変える。
さっきと同じ道順でも、光が違う。
光が違えば、影も違う。
違うものだけが、よく見える。
再び引き戸を滑らせ、内部へ戻った。
ガラスの反射が弱くなり、床の帯は千切れ、扉の影は濃く、廊下全体が低くなる。
低くなる、という感覚は、天井の高さとは別の話だ。
心の位置が下がる。
下がった心は、音を拾う。
──靴音。
遠くから、一定で、軽い。
先ほどのそれと同じかどうか、私には判断できなかった。
同じである必要はない。
似ていれば、それで充分だ。
似ているものばかりが、ここにはある。
根津が息を止める音を、私は聞いた。
息を止める音は、息をする音より大きい。
大きな音だけが、廊下では役に立たない。
役に立たないものだけを、私は選ぶ。
影は、いた。
ガラスに映らないまま、廊下の中央を、今度は私たちのほうへ戻ってくる。
距離は縮まるのに、形は鮮明にならない。
輪郭は、むしろ薄くなる。
薄くなるものほど、こちらの目前まで来る。
目前にあるものほど、言葉にできない。
私は立ち止まらず、廊下の端を回避するように一歩だけ避けた。
根津は立ったまま、何も撮らなかった。
撮らない観測は、強い。
記録のない出来事は、よく育つ。
影は、私の脇を通り過ぎると見え、通り過ぎなかった。
通り過ぎなかったと感じたのは、風が動かなかったからだ。
私の袖は揺れない。
ガラスの傷が反射を散らす。
床の砂が鳴らない。
鳴らないものばかりが、ここにある。
やがて、影は消えた。
消えたという言葉は、ここでは正確ではない。
“見えなくなった”のではない。“映らないまま、映らなくなった”。
二重に否定することは、二倍の肯定にはならない。
ただ、廊下が、元の長さに戻った。
私は入口まで歩き、引き戸の枠に肩を預けた。
肩の骨が冷たい金属を覚える。
冷たさは、真実に似ない。
真実は、温度を持つふりが上手い。
私は一度だけ深呼吸をし、鼻の奥の粉を新しい空気に置き換えた。
根津はカメラを外し、ストラップを手の中で捩じった。
「さっき、何かが、あなたの横を──」
「通り過ぎた、かもしれない」
「映らない、のか」
「ここでは」
ここでは、という言葉だけが、廊下の言語だ。
足元の砂が微かに擦れ、床の帯の端が崩れた。
崩れた端は、元に戻らない。
崩れたことは、記録に向く。
私は、携帯のカメラで床を一枚撮った。
画面には、灰と白しか写らなかった。
灰と白の間に、赤はない。
赤がないことは、証拠にならない。
証拠にならないものだけが、正しい。
引き戸をもう一度閉めかけ、やめた。
閉めると、ここが完成してしまう。
完成したものは、壊れやすい。
壊れやすいものは、誰かを呼ぶ。
呼ばれた誰かは、ここに来る。
来た誰かは、帰らない。
外へ出ると、夕日の温度は薄くなっていた。
草はまだ音を立て、風鈴は小さく鳴り、遠くの道路で車が走る。
世界は、元の速さに戻っている。
戻った世界のほうが、廊下の内部より不自然に見えることがある。
不自然さは、安心の逆側にある。
安心の逆側に立つとき、人はよく笑う。
駐車場を斜めに横切り、フェンスの切れ目から外へ出る。
鍵はない。門もない。
ない、ということは、責任が薄まる。
薄まった責任は、よく続く。
続くものだけが、記憶になる。
根津は「現像まで、黙っていてください」と言った。
「現像のあとに、何がある」
「写真」
写真は、真実を食べる道具だ。
食べられた真実は、痕跡を残す。
痕跡は、甘い。
甘いものは、長く保つ。
バス停までの道で、私は手の甲を見た。
赤い糸のような、細い筋が一本、皮膚に貼りついていた。
指で触れると、ぬるりと溶け、匂いを残さず消えた。
“ほとんど匂いがない”。
この言い回しは便利だ。
匂いがある、と言い切る代わりに、ほとんど、と言えばいい。
それで、世界は壊れない。
バスは少し遅れ、夕闇の中を緩やかに走った。
車内の金属の柱に、細い傷が一本あり、人の爪の跡に見えた。
移動の間、人は自分の形をどこかに残そうとする。
残された形は、次の誰かの指に触れる。
指は、温度を持たない。
温度のない触覚だけが、確かだ。
家へ戻り、靴底の砂を紙の上に落とした。
粒は細かく、色は灰に近い。
顕微鏡はない。
ないことは、ここでは正確さの証明になる。
私は粒の数を数えるふりをし、途中でやめた。
途中でやめたものだけが、心に残る。
机の端に、薄い紙切れ。
最初に受け取った地図だ。
赤いペンの矢印の太さが、少しだけ違って見えた。
違って見える、という事実は、たいてい照明の角度のせいだ。
だが、角度のせいにしていいことは、世の中に少ない。
少ないものだけが、信じられる。
水を一口飲み、喉の粉を流した。
粉は喉に貼りついていなかった。
喉は、名前を呼ばれたときだけ、正しい形になる。
ここでは名は呼ばれない。
名が呼ばれない場所は、居心地がいい。
居心地の良さは、長居を招く。
長居は、罪を軽くする。
軽くなった罪は、長く続く。
水面のない夜に、ガラスのない部屋で、私は目を閉じた。
閉じた目の内側に、廊下の長さが現れる。
現れる長さは、さっきより少し短い。
短くなるのは、私が歩いたからだ。
歩いた距離は、私のものではない。
影のものだ。
映らないまま、映らなくなった影のものだ。
水穂という名は、ここでは呼ばれない。
さえという名も、ここでは呼ばれない。
呼ばれない名は、優しい。
優しさは、歯を見せない。
歯を見せない笑いだけが、ここでは音になる。
私はここで筆を置く。
この独白に現れる名も場所も人も現実には存在しない。
ただ、硝子が光を反射し、影が映らず、扉が開かないまま誰かが通り抜け、粉に足跡がひとつ残ったという記憶だけが、乾かない。
乾かないものは、罪に似る。
罪は、ほんの少しだけ、甘い。
……映らないものほど、よく見える。あんたも、そのうち気づく。