凪子はシャワーから戻って来ると、身体中にローズの香りのボディクリームを丹念に塗り込む。
こんなきちんとした手入れはいつ以来だろう?
おそらく、結婚してから一年くらいはきちんとやっていたように思う。
そこで凪子は、自分がいかに家でズボラな格好をしていたかに気づく。
その後、今度はクローゼットを開けて何を着ようか考える。
その時目に留まったのは、リネンのベージュのワンピースだった。
これはかなり前に買った服だがほとんど着ていない。
深く開いた胸元と、ノースリーブのデザインは、
凪子の美しい鎖骨と引き締まった二の腕を上品に魅せてくれる。
ストンと下へ落ちる細身のAラインなので、
休日のリラックスタイムにも合うし、もちろんこのまま出かけても大丈夫だ。
「これにしよう!」
凪子はそう呟くと、そのワンピースに着替えた。
メイクは、会社へ行く時とは異なるナチュラルメイクにする。
ナチュラルと言ってもしっかりポイントは押さえ、人妻の色気を魅せつつ上品に仕上げた。
(良輔は、昔から上品なタイプが好きなのよ…)
凪子はそう思いながら、鏡に全身を映して微笑む。
そして、これから訪れるであろう厳しい闘いを前に覚悟を決めた。
凪子が朝食を終えて後片付けをしている所へ、良輔が帰って来た。
時刻は九時半を過ぎている。
玄関のドアがバタンと閉まり、良輔がリビングへ入って来た。
「いやーっ、昨夜は参ったよ! 野村に捕まっちゃってさ。三軒目の後にカラオケに連れて行かれちゃってさぁ…気づいたら終
電逃しちゃうんだもんなぁ…。凪子ごめんな、連絡入れなくて」
今までの凪子だったら、その言い訳を素直に信じただろう。
しかし、今は良輔のその饒舌さに違和感を覚える。
(へぇ…外泊なんて初めてだから、てっきり浮気でもしているのかと思ったわ!)
そんな言葉が口をついて出そうになる。
しかし凪子はそれをぐっとこらえる。
そして、昨夜読んだブログの指南通りに返答した。
「随分と盛り上がったのね! でもいい事じゃない? みんなとコミュニケーションを取るのは営業部では必須だもの」
凪子の反応を見た良輔は、ホッとした表情をしている。
その表情から、凪子は昨夜良輔が女と一緒にいた事を確信した。
(すぐに顔に出るんだから…浮気するなら嘘くらい上手くついてよ!)
凪子の心の中には一気に暗雲が立ち込める。
しかしそんな気持ちを気づかれないように、あえて明るく言った。
「シャワー浴びて来たら? その後、買い物に行ける? 疲れているなら一人で行ってくるから、ゆっくりしててもいいわ
よ!」
凪子の言葉を聞いて良輔はハッとする。
今日は二人で夏物の服を買いに行こうと約束をしていたのだ。
今の反応を見ると、良輔はすっかり忘れていたらしい。
そこで良輔が慌てて言った。
「大丈夫だ! 前からの約束だろう? ちょっと待ってろ…すぐに浴びてくるから…」
良輔はそう言い残すとバスルームへ向かった。
(無理しないでお前一人で行ってこいって言えばいいじゃない! どうせ私と買い物なんかに行ったって楽しくないんでしょ
う?)
凪子はそう毒を吐く。
しかし良輔が一緒に行くと言ったので意外だった。
(浮気して後ろめたいから、優しいのかな?)
ふとそんな思いが過る。
凪子は何とも言えない寂しさに押しつぶされそうだった。
そしてふいに目頭に熱いものがこみ上げてくる。
凪子が手でそれを押さえようとした瞬間、一粒の雫がこぼれ落ちた。
「結婚なんて、しなきゃよかった…」
凪子はそう呟くと、ティッシュで涙をぬぐった。
それから意を決したように洗面所へ向かう。
バスルームからはシャワーの音が響いていた。
凪子は気づかれないようにそっと洗面所へ忍び込むと、
夫が脱ぎ捨てたワイシャツを手に取り匂いを嗅いだ。
そして嗅いだ瞬間、凪子の表情が一気に曇った。
(やっぱりあの香水の匂いがする…)
凪子はガックリと肩を落とすと、今度は良輔が洗面台の上に置いているスマホを手にした。
良輔は付き合っている頃からスマホにロックはかけない主義だった。
『やましい事なんてないんだから、ロックをかける必要なんてないだろう?』
当時は笑いながらそう言っていた良輔だが、今はどうなのだろう?
凪子は音を立てないよう細心の注意を払いながら、そっと画面をタップしてみる。
すると、すぐにロック解除の画面が立ち上がった。
(完全に黒ね…もう覚悟を決めないと駄目よ凪子!)
凪子はスマホをそっと元の位置に戻すと、音を立てないようにリビングへ戻った。
ソファーへ座った凪子は、しばらく放心状態だった。
それから凪子はスマホを手に取ると、昨夜読んだブログを開く。
そしてそこに書いてある一文を見た。
◆夫の不倫相手が、あなたの知人である場合の対処法◆
(※注意点)
何度も言いますが、あなたが浮気に気づいているという事は決してご主人や不倫相手に知られてはいけません。
何があっても、どんなに不倫相手に挑発されても、知らぬ存ぜぬを貫きましょう。
これをふまえた上で、次の(プランA)を実行して下さい。
(プランA)
まずは、新しい服を購入して下さい。
出来れば、ご主人と買い物に行き、ご主人に選んでもらい、ご主人のお金で買ってもらいましょう。
もしご主人が一緒に買い物をしてくれないタイプの場合には、ご自身で行って自分のお金で買って下さい。
新しく買った服は、次にあなたが不倫相手に会う時に着て行きます。
そしてその不倫相手の前で、その服はご主人が自ら選んで買ってくれたという事をアピールしましょう。
あくまでも自然に、嫌味なく…
そう、あなたはご主人の浮気には気づいていない事になっているのです。
だから決して不倫相手を挑発してはいけません。
あくまでも、「夫と買い物に行き、一緒に服を選び買ってもらった」、ただこの点だけが相手に伝わるようにしましょう。
「自分一人で買った事がバレたらどうしよう?」
と心配の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、その心配はいりません。
もしあなたのご主人が、
「あれは、僕じゃなくて妻が勝手に一人で買ってきたんだ」
と不倫相手に言ったとしても、全く問題はありません。
なぜなら、不倫相手はご主人の話を信じていないからです。
妻という確かな地位にいない女というのは、常に精神状態が不安定です。
人の夫を奪う女は、大抵自分の事しか信じていません。
そして皮肉な事に、妻に嘘をついて自分と不倫をしているような男の事を、
心の底から信じる事が出来ないのです。
だから、あなたが堂々としていれば、嘘も真実へと変わるのです。
あなたは戸籍上きちんと認められた正式な妻なのです。
妻の座ほど安定した地位はありません。
ですから、精一杯の演技をして、夫に愛されている妻、
夫が不倫などしているとは夢にも思っていない妻を演じ続けましょう。
凪子がそこまで読み終わると、洗面所で物音がした。
シャワーを終えた良輔がドライヤーをかけているようだ。
(よしっ! 今日はとびっきり素敵な服を買って貰おう!)
凪子はニヤリと笑うとそう心に決めた。
コメント
1件
すごいマニュアルを手に入れた凪子さん❗️凪子さんの自信が揺らぐ時も一緒に戦ってくれる同士ですね✨