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慌ただしい師走中旬の午後。
私はナースステーションの椅子に腰掛け、電子カルテへ視線を落としながらキーボードを打っていた。
「宮坂先生。明日、連携を通して入院される患者さんが二名いるんですが……相川先生が出張から戻られるまで、主治医をお願いできますか?」
私がエンターキーを押したタイミングを見計らい、師長が申し訳なさそうに声を掛けてきた。
私はマウスを持つ手を止め、顔を上げる。
「それは構わないけど……どうして入院時に不在の相川先生を主治医にするの?」
麗香は明後日まで東京へ出張している。
通常、入院当日に不在の医師を主治医にするのは異例だ。
私は首を傾げ、師長が手にしていた連携室からの患者情報へ目を通した。
「そうなんですけど……ほかの先生方も次々に入る入院患者さんの対応で手一杯みたいで……」
「断られたの?」
「……はい。患者さんの年齢も年齢ですから……」
「九十二歳ね……なるほど。
それで上の先生たちは、不在の相川先生へ押し付けたってわけね」
私は大きくため息をつく。
その横で、師長は困ったように苦笑した。
「いいわ。
主治医として私が入院を取るから」
「えっ!? でも宮坂先生、すでに心カテ目的の入院患者さんが三人予定されていますよ?」
師長は目を丸くし、思わず声を裏返した。
「いいよ。途中で主治医が代わる方が、患者さんは不安になるでしょ。
連携にはそう伝えておいて」
私は患者情報の用紙をカウンターへ戻し、申し
訳なさそうに頭を下げる師長へ微笑み返した。
十二月中旬から下旬にかけては、入院設備を持たない個人病院からの紹介入院が急激に増える。
なかでも、八十代を超えた高齢者の紹介入院が最も多い時期だ。
通院や在宅医療を受けている高齢者は、少し食事が摂れなくなったというだけでも、年末に向けて入院依頼が相次ぐ。
いつ急変してもおかしくない高齢者――。
一度主治医になれば、紹介元の個人病院へ戻ることは難しく、そのまま認知症が進行し、最期を迎える患者も少なくない。
そのため、回復が見込めない高齢患者の主治医は、できるだけ避けたいと考える医師も多い。
なかには、年末年始に長期休診へ入る個人病院に対し、
「亡くなりそうな患者を押し付けて、あそこの院長は自分だけハワイでバカンスかね。今年も始まりました、年末在庫一掃セール」
などと、皮肉交じりの言葉を口にする医師もいる。
「どこも患者の押し付け合いか……」
カウンターに置かれた一枚の用紙へ視線を落とし、やりきれない思いで深くため息をついた。
「あの……宮坂先生、もう一つご報告が」
立ち去ったものと思っていた師長が、遠慮がちに再び声を掛けてきた。
「えっ、どうしたの?」
私は驚いて身を引き、目をぱちぱちと瞬かせる。
「411号室の岩田さんなんですが、外科の宮坂先生から早く外科へ転科するよう電話がありまして……。岩田さんへのICはどうされますか?」
「宮坂先生から転科の催促?」
「はい。今朝、ナースステーションに連絡がありました」
遼のことだ。
また、いつもの厳しい口調で師長へ伝えたのだろう。
困ったように眉を寄せる師長を見つめ、私は小さく息をついた。
「私は岩田さんを外科へ転科させるつもりはないから。少なくとも、今はまだその時期じゃない。彼女は胸に傷が残ることにも抵抗を感じてる。
今は発作も落ち着いてるし、私はカテーテルでの治療方針を変えない」
私は師長を見つめ、きっぱりと言い切った。
「……分かりました。私も先生の方針に賛成です。外科の宮坂先生には、そのようにお伝えします」
師長は柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと頷く。
「私が合同カンファレンスで説得するから、師長は――」
心配しなくていい。
そう続けようとした、その時だった。
「なんか素敵ですよねぇ。プライベートではラブラブ夫婦。職場では心臓内科と心臓外科のプライドを懸けて戦うライバル! カッコイイなぁ、羨ましいです」
師長の背後から看護師の川崎さんがひょっこり顔を覗かせ、嬉しそうに笑った。
ラブラブ夫婦……?
私と遼のこと?
目をぱちぱちと瞬かせ、はしゃぐ川崎さんを見つめる。
「ちょっと、川崎さん。またそんな意味の分からないこと言って」
「えぇー。師長もそう思いません?
あっ、心臓内科VS心臓外科って、そんなドラマありましたよね。須賀健斗が主演の。先生、知ってます?」
師長の制止も気にせず、川崎さんは目を輝かせて尋ねた。
「ごめん。ここ数年ドラマとか見てないの。超芸能界オンチだし……」
……あれ?
ついこの前も、麗香と芸能人の話をしたような。
もうすぐ赴任してくる先生が似てるのも、確かその俳優だった気がする。
「……すがけん?」
「そうです! すがけんです。なんだぁ、先生も知ってるんですね」
「うん。名前だけね。顔は知らない」
「えっ、知らないんですか!?」
「この入院患者さんの情報提供書、借りていくね。医局で確認したいから」
驚く川崎さんへ笑顔を返し、私は椅子から立ち上がった。
「はい、分かりました。
川崎さん、あなたは早く業務に戻りなさい」
師長の叱る声を背中で聞きながら、私はナースステーションを後にした。
入院患者の情報提供書と資料を抱え、医局へ向かって廊下を歩く。
……”すがけん”を知らないって、そんなに驚かれることなのかな。
確か麗香は、「国宝級の美男子」だと言っていた。
「そこまでの容姿なら、医師じゃなくて芸能人になればいいのに。それこそ宝の持ち腐れじゃない?」
首を傾げながら独り言を漏らす。
……来年度から異動してくるんだっけ。
ドクターたちの噂では、自分からこの病院への異動を強く希望したらしい。
消化器外科の医師で、腹腔鏡手術の若きエース。
どうして、そんな凄いドクターがわざわざこの病院を希望したんだろう。
考えれば考えるほど、その理由が分からない。
眉を寄せながら、【内科医局1】と書かれた扉を開けた。
自席の前に立った、その時――
「宮坂亜紀先生!」
聞き慣れない声が背後から響く。
「は、はいっ」
肩を跳ね上げて振り返った瞬間、私の身体は正面から抱き締められた。
「会いたかったよ……彩音ちゃん……」
抵抗する隙を与えないように、その囁きが耳元へ静かに落ちた。
コメント
1件
いやあ、読み終わってすぐに胸がざわつきました……。亜紀先生が患者さんを守ろうとする姿勢、本当に格好良かったです。「年末在庫一掃セール」の皮肉には思わず苦笑い。師長や川崎さんとのやり取りでほっこりした直後に、最後のあの抱擁ですよ。「彩音ちゃん」って誰!? いやもう、続きが気になって仕方ないです。伏線が一気に跳ねた感じがして、ワクワクしてます。