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第6話 工事の終わる絵
橋は、まだ途中だった。
川の上に、途中まで伸びた道がある。
向こう岸へ届きそうで、まだ届かない。
鉄骨。
足場。
黄色い柵。
工事中の看板。
川面に落ちる影。
橋の先は、そこで止まっていた。
磁馬は川沿いの歩道に立ち、長く見上げていた。
朝の風は少し冷たい。
川の匂いに、湿った土と機械油の匂いが混ざっている。
工事現場の奥では、作業員たちが動いていた。
声をかける人。
資材を運ぶ人。
足場を上がる人。
図面を見ている人。
全部が、ひとつの大きな生き物みたいに動いていた。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
「途中のものは、いいなあ」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
完成した橋は、人を渡す。
途中の橋は、人の手を見せる。
磁馬はペンを持った。
まず、川を描く。
次に橋脚。
足場。
柵。
看板。
作業員の背中。
橋はまだ終わっていない。
だから、線も少しだけ止めて描いた。
伸びる途中。
止まる途中。
待つ途中。
ペン先が紙を歩く。
その時、近くで声がした。
「そこ、見学の人ですか」
磁馬は顔を上げた。
黄緑の安全ベストを着た若い作業員が、柵の向こうから見ていた。
短い髪。
汗の浮いた額。
手袋の指先に土の跡。
磁馬はスケッチ帳を少し持ち上げた。
「描いてます」
「橋を?」
「うん」
「まだできてないですよ」
「だから描いてる」
作業員は少し笑った。
「変わってますね」
「よく言われる」
「町田です」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「覚えやすいですね」
町田は柵の近くまで来た。
「中には入れませんよ」
「入らない」
「それならいいです」
磁馬はまた橋を見た。
町田は横から絵をのぞいた。
「おお。うまいですね」
「ありがとう」
「でも、まだこっち側、つながってないですよ」
「うん」
「完成したら、もっといい橋になります」
町田はそう言って、橋の先を見た。
その顔が、さっきより少し大人びて見えた。
磁馬は町田の横顔を描き足した。
「橋、好き?」
「好きっていうか……作ってると、気になります」
「気になる?」
「毎日ちょっとずつ変わるんです。昨日なかったものが、今日ある。今日あるものが、明日は隠れる」
町田は照れたように手袋をこすった。
「そういうの、見てると飽きないんです」
磁馬はうなずいた。
「わかる」
橋の向こうから、大きな音がした。
資材を運ぶ音。
誰かの合図。
川を渡る風。
磁馬は線を重ねた。
その時、ペンキャップが指から滑った。
小さな茶色のキャップだった。
ころ。
歩道の端を転がる。
磁馬はすぐに手を伸ばした。
けれど、キャップは黄色い柵の下をくぐり、工事現場側へ入ってしまった。
磁馬の手が止まる。
町田も見た。
「入っちゃいましたね」
磁馬はゆっくり立ち上がった。
「落とした」
「ペンのふたですか」
「うん」
「あとで拾いますよ」
磁馬は首を振った。
「見つかるまで帰らない」
町田は目を丸くした。
「そんなに大事なんですか」
「うん」
「予備とかないんですか」
「ある。でも、あれはあれ」
町田は少し考えてから、柵の中を見た。
「危ないので、ここで待ってください。僕が見ます」
「ありがとう」
磁馬は頭を下げた。
町田は現場の人に声をかけ、柵の内側を探し始めた。
磁馬は柵の外で、じっと見ていた。
走らない。
手を伸ばさない。
入ってはいけない場所には入らない。
でも目は、キャップを探していた。
小さな茶色。
歩道の色に似ている。
土にも似ている。
影にも紛れそうだった。
町田は足場の下をのぞいた。
「ないですね」
「こっちへ転がったと思う」
磁馬は指で方向を示す。
町田はそちらへ移動する。
その時、自転車のブレーキ音がした。
川沿いの道に、花を積んだ自転車が止まった。
茶色のエプロンをつけた女性が、前かごの花を押さえている。
「また探し物?」
町田が振り返る。
「春乃さん」
春乃と呼ばれた女性は、磁馬を見た。
「今度は誰の?」
町田が言う。
「この人のペンキャップです」
「ペンキャップ」
春乃は少し笑った。
「橋より小さいね」
磁馬は頭を下げた。
「すみません」
「いいのよ。工事が始まってから、みんな何かしら落とすから」
春乃は自転車を端へ寄せた。
「私も前に花ばさみを落としたし」
町田が言う。
「それ、僕ら三人で探しましたよね」
「見つかったからいいじゃない」
春乃は橋を見上げた。
「この橋ができたら、店から駅まで近くなるの」
磁馬はその言葉を聞き、橋を見た。
途中の橋。
誰かには、まだ不便な道。
誰かには、待っている道。
誰かには、毎日の仕事。
磁馬は描きたくなった。
でも、キャップが先だった。
町田は柵の内側でしゃがんだ。
「あ」
磁馬が息を止める。
「ありました?」
「いや、ボルトでした」
磁馬は少し肩を落とした。
春乃が自転車を降り、柵の外から地面を見た。
「転がったなら、そこの板の下かも」
町田が板を少し持ち上げる。
砂。
小石。
葉。
細い結束バンド。
キャップはない。
磁馬は歩道にしゃがみ、柵の下をじっと見た。
風が吹く。
橋の足場が少し鳴る。
川面が光る。
磁馬は、手を伸ばしたいのを我慢した。
町田が言う。
「奥へ行ったかもしれません。休憩時間になったら、もう少し探せます」
「待つ」
「本当に帰らないんですね」
「うん」
春乃は磁馬の横にしゃがんだ。
「あなた、絵描きさん?」
「うん」
「この橋を描いてたの?」
「うん」
「完成したら、また描きに来る?」
磁馬は橋を見上げた。
「たぶん」
春乃は笑った。
「たぶんかあ」
町田も笑った。
休憩の合図が鳴った。
現場の音が少しだけ静かになる。
町田はヘルメットを外し、額の汗をぬぐった。
「じゃあ、本格的に探しましょう」
春乃も自転車を置いた。
「私も少しなら」
「花は?」
「まだ大丈夫」
三人で探した。
磁馬は柵の外。
町田は柵の内側。
春乃は歩道側。
落ちたものを探す時、地面は急に広くなる。
小石がキャップに見える。
影がキャップに見える。
葉の丸まりがキャップに見える。
町田は資材の横を見た。
春乃は歩道の溝を見た。
磁馬は柵のすきまから目をこらした。
見つからない。
春乃がふと顔を上げた。
「風で向こうへ行ったかも」
「向こう?」
「川のほう」
磁馬は川を見る。
歩道の端から、少し低い場所へ下りられる階段があった。
そこは工事現場の外で、川岸へ続いている。
町田が言う。
「柵の下を抜けて、斜面に落ちた可能性はあります」
磁馬はすぐ立った。
「行く」
三人は川岸へ下りた。
川岸は少し湿っていた。
草が短く生え、石が並んでいる。
工事中の橋を下から見上げると、さっきよりずっと大きかった。
橋の腹。
足場。
作業用の網。
川に落ちる影。
磁馬は見上げたまま止まった。
「下から見ると、別の橋だ」
町田がうなずく。
「上から見るより、支えてる感じがしますよね」
春乃は花かごを自転車に置いてきたため、手が軽そうだった。
「ここ、夕方になると鳥が来るのよ」
磁馬はそれも覚えた。
キャップを探す。
草の間。
石の間。
足場の下。
磁馬はしゃがみこみ、指で草を分けた。
そこに、茶色い小さなものがあった。
「……あった」
声が漏れた。
町田と春乃が近づく。
草の根元に、ペンキャップが引っかかっていた。
泥はついている。
でも割れていない。
磁馬はそっと拾い、手のひらに乗せた。
「見つかった」
町田が息を吐いた。
「よかった」
春乃も笑った。
「橋より先に完成ね」
磁馬は二人に深く頭を下げた。
「ありがとう」
「大事なものなら、見つかってよかったです」
町田はそう言い、橋を見上げた。
「僕らの橋も、ちゃんと見つかる場所になりますかね」
磁馬は首をかしげた。
「見つかる場所?」
町田は少し恥ずかしそうに笑った。
「人が道に迷った時、あの橋を渡ればいいって思えるような」
春乃は橋を見た。
「私は早く渡りたいわ。花がしおれる前に駅へ行けるから」
磁馬は手の中のキャップを握った。
工事中の橋。
まだ渡れない橋。
でも、もう誰かの暮らしの中に入っている橋。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
川岸に座る。
ペンキャップをしっかりはめる。
ペンを持つ。
町田が言った。
「ここで描くんですか」
「うん」
春乃は少し離れ、花屋のほうを気にしながらも残った。
磁馬は橋を下から描いた。
完成していない橋。
橋脚。
足場。
網。
資材。
柵。
町田の安全ベスト。
春乃の茶色のエプロン。
草の根元にあったペンキャップ。
線を重ねる。
すると、紙の中の橋が少し変わった。
足場の向こうに、まだないはずの道が伸びる。
途切れていた先がつながる。
柵が外れ、人が歩く。
磁馬は手を止めた。
町田がのぞき込んだ。
「え」
紙の中で、工事中の橋だけが完成していた。
現実の橋はまだ途中だ。
川の上で止まっている。
でも絵の中では、橋は向こう岸まで続いている。
人が歩いている。
自転車が渡っている。
花を積んだ春乃が、軽くペダルを踏んでいる。
町田が橋のたもとで、少し照れた顔をして見上げている。
春乃も息をのんだ。
「これ、完成後?」
磁馬は紙を見つめた。
「たぶん」
町田は橋と絵を見比べた。
「まだ、あの柵の向こうもできてないのに」
絵の中では、橋の影が川に落ちている。
今よりまっすぐで、やわらかい影だった。
町田の指が、絵の橋の端に近づく。
「僕、ここにいる」
「うん」
「春乃さんも」
春乃は小さく笑った。
「花、ちゃんと載ってる」
紙の中の橋では、時間が先に進んでいた。
工事の音はない。
けれど、工事が終わったあとの静けさがある。
磁馬はまたペンを動かした。
今ある足場も描く。
まだ残る柵も描く。
汗をぬぐう町田も描く。
橋を待つ春乃も描く。
完成だけではなく、途中も残す。
途中がなければ、完成は薄くなる。
町田は黙って見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「終わった橋もいいけど、途中の橋も悪くないですね」
磁馬はうなずいた。
「うん」
春乃は川風に髪を押さえた。
「でも、早く渡りたい」
「それも、うん」
三人は笑った。
上の工事現場から、休憩終わりの声が聞こえた。
町田は立ち上がった。
「戻らないと」
「ありがとう」
磁馬はもう一度言った。
町田は手袋をはめ直した。
「完成したら、見に来てください」
「来る」
「たぶんじゃなくて?」
磁馬は少し考えた。
「来る」
町田は満足そうに笑った。
春乃も自転車へ戻ろうとした。
「私も店に戻るわ。お腹すいてない?」
磁馬は一瞬で顔を上げた。
「すいてる」
春乃は笑った。
「花屋だけど、お菓子ならある」
「いいの?」
「キャップ探し、楽しかったから」
磁馬は少し遠慮したが、結局、小さな焼き菓子をひとつもらった。
川岸で食べると、少し甘く、少し粉っぽくて、工事現場の匂いとは別の時間がした。
春乃は自転車に乗って、橋の完成前の遠回り道へ向かった。
町田は現場へ戻った。
磁馬はひとり、川岸に残った。
スケッチ帳を開く。
絵の中の橋は完成している。
でも、その下には工事中の橋も重なっている。
足場が組まれる。
資材が運ばれる。
町田が汗をぬぐう。
春乃が遠回りする。
磁馬のペンキャップが草に引っかかる。
そして、橋がつながる。
紙の中でだけ、工事はもう終わっていた。
でも、それは先取りではなかった。
待っている人の気持ちが、
少し早く絵に出ただけのように見えた。
磁馬はペンキャップを確かめた。
ある。
鞄の留め具も確かめた。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
川の水が流れている。
橋の影はまだ途中だった。
磁馬は立ち上がり、現実の橋を見上げた。
途中の橋は、途中のまま美しかった。
いつか完成する。
でも今日の橋は、今日だけの形をしている。
磁馬はスケッチ帳を抱えた。
上から、町田の声がした。
合図の声。
工事の音。
橋が少しずつ未来へ近づく音。
磁馬は川沿いを歩き出した。
背中の鞄の中で、
工事の終わる絵が、静かに時間を進めていた。
うらそ茶
コメント
1件
読了しました。第6話「工事の終わる絵」、とても沁みました。磁馬さんが「途中のものは、いいなあ」とつぶやく場面で、もう胸がいっぱいに。完成していないからこそ見える人の手や時間の積み重ね——それをペンキャップ探しという小さなエピソードでここまで丁寧に描けるのが、本当に素敵です。町田さんと春乃さんとの出会いも自然で、最後に「来る」と言い直す磁馬さんにじんわりしました。まだ読める話があるのが嬉しいです🤍