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於田縫紀
7
第7話 桜が散るまで
桜並木は、朝から少し散っていた。
風が吹くたび、花びらが道に落ちる。
音はしない。
けれど磁馬には、静かな足音のように聞こえた。
一本。
また一本。
道の両側に、桜の木が続いている。
その下を、着物の人が歩く。
自転車がゆっくり通る。
犬が花びらを踏んで、鼻先をくすぐられている。
昭和初期の春は、少し埃っぽくて、少し甘かった。
磁馬は並木の端に座り、スケッチ帳を開いた。
桜を描く時は、急いではいけない。
でも、ゆっくりしすぎてもいけない。
花は待ってくれない。
磁馬はペンを持つ。
幹。
枝。
花のかたまり。
道に落ちた花びら。
通りすぎる人の肩。
線を細く、細く置いていく。
「花、描いてるの?」
声がした。
磁馬が顔を上げると、少女が立っていた。
耳の下で切りそろえた髪。
薄桃色の着物。
小さな草履。
少女は桜の下に立っていて、花びらが肩に一枚ついていた。
「うん」
磁馬は答えた。
「散るところを描いてる」
少女は少し首をかしげた。
「咲いてるところじゃなくて?」
「散るところ」
「変な人」
「よく言われる」
少女は磁馬の横にしゃがんだ。
「私は千代」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
千代はくすっと笑った。
それから、磁馬の絵を見た。
「まだ花がいっぱいあるね」
「今はね」
「今は?」
磁馬は枝を見上げた。
風が通る。
花びらが降る。
「もう少ししたら、変わる」
千代は並木を見た。
「毎年、あっという間に終わっちゃう」
「数えてるの?」
「うん。咲いた日と、散り始めた日と、ほとんどなくなる日」
「すごいな」
「すごくないよ。ここに住んでたら、わかるだけ」
千代はそう言ったが、少し得意そうだった。
道の向こうから、団子の匂いが流れてきた。
焼けた香ばしさ。
甘いたれ。
磁馬の腹が小さく鳴った。
千代が聞いていた。
「お腹すいた?」
「少し」
「辰吉さんの団子、おいしいよ」
「買えるかな」
磁馬は鞄から小銭袋を出そうとして、手を止めた。
この時代の小銭袋。
ある。
よかった。
磁馬は立ち上がろうとした。
その時、強い風が吹いた。
桜がざわっと鳴る。
スケッチ帳のページがめくれる。
磁馬は慌てて押さえた。
その拍子に、鞄の奥にしまっていた小さな紙包みが、するりと落ちた。
ころん。
紙包みは道の上で一度跳ね、花びらの中へ入った。
磁馬は手を伸ばした。
けれど次の風が、花びらを一斉に動かした。
紙包みは、薄桃色の中に紛れた。
磁馬の顔が止まる。
千代も地面を見た。
「何か落とした?」
「紙包み」
「中は?」
「予備のペン先」
千代はすぐにしゃがんだ。
「どのへん?」
「ここ。たぶん」
「たぶん?」
磁馬はうなずいた。
「見つかるまで帰らない」
千代は目を丸くした。
「帰らないの?」
「うん」
「そんなに大事?」
「うん」
千代は花びらの上に手を置いた。
「じゃあ探そう」
二人は道にしゃがんだ。
花びらを一枚ずつよける。
小石。
葉。
小さな枝。
誰かの落とした紙片。
紙包みはない。
風が吹くたび、探した場所にまた花びらが積もる。
千代は少しむっとした顔になった。
「桜、きれいだけど、今日は邪魔」
磁馬は花びらを見た。
「邪魔なきれいもある」
「変なこと言う」
「よく言われる」
通りかかった男が足を止めた。
茶色の前掛け。
太い腕。
団子の串を入れた箱。
「千代、何してる」
「辰吉さん、この人の紙包みが落ちたの」
辰吉は磁馬を見た。
「花びらの中へか。そりゃ難儀だ」
磁馬は頭を下げた。
「すみません」
「いいよ。商売前の手なら空いてる」
辰吉は箱を道の端に置き、しゃがんだ。
三人で探す。
花びらが増える。
紙包みは見つからない。
辰吉が言った。
「風は川のほうへ流れてるな」
千代が顔を上げる。
「じゃあ下の道?」
並木の横には、細い坂道があった。
その先に小さな川が流れている。
磁馬は立ち上がった。
「行く」
千代もすぐ立つ。
辰吉は団子箱を持ち上げた。
「俺は店があるから、あとで声をかけてくれ」
「ありがとう」
磁馬は頭を下げた。
千代は坂道を先に下りる。
花びらは坂を滑るように流れていた。
磁馬はそれを追う。
走らない。
鞄を押さえる。
スケッチ帳を抱える。
もう何も落とさない。
坂の下は川沿いの細い道だった。
水は浅く、ゆっくり流れている。
川面にも桜が浮いていた。
千代は草の間をのぞいた。
「ここに引っかかってるかも」
磁馬もしゃがんだ。
花びら。
草。
泥。
小さな虫。
紙包みはない。
川へ落ちたのかもしれない。
磁馬は水面を見た。
薄桃色の花びらが、ゆっくり流れていく。
紙包みがその中にあったら、見分けるのは難しい。
千代は草履を脱ぎかけた。
磁馬が止める。
「危ない」
「浅いよ」
「でも冷たい」
「冷たいだけなら平気」
「だめ」
千代は少し不満そうだったが、草履を履き直した。
「じゃあ、橋のところで見る。流れが止まるから」
二人は川沿いを歩いた。
桜並木は上の道に続いていて、花びらだけが川へ降りてくる。
水面は春を運んでいるみたいだった。
磁馬は何度も足を止めそうになった。
描きたい。
川に浮く花。
坂を下る花。
桜の下で紙包みを探す少女。
でも、まず探す。
千代は橋のところでしゃがんだ。
小さな木の橋。
その下に、花びらがたまっている。
「あったらここ」
磁馬も横にしゃがむ。
花びらを枝でそっと寄せる。
中から葉が出る。
小枝が出る。
紙の欠片が出る。
磁馬の手が止まった。
薄桃色の花びらの間に、見慣れた小さな紙包みがあった。
水を吸って、少しふくらんでいる。
「これ」
千代が先に見つけた。
磁馬は枝を使って、ゆっくり岸へ寄せた。
手を伸ばす。
今度は落とさない。
紙包みをつまむ。
濡れている。
けれど破れていない。
磁馬はそっと開いた。
中のペン先は、布に包まれて無事だった。
磁馬は深く息を吐いた。
「見つかった」
千代は笑った。
「よかったね」
「ありがとう」
磁馬は何度も頭を下げた。
千代は少し照れたように、川のほうを見た。
「桜が隠したけど、桜が教えてくれたみたい」
磁馬はその言葉を覚えた。
桜が隠し、桜が教える。
いい言葉だった。
二人は並木へ戻った。
辰吉の団子屋は、もう小さく賑わっていた。
辰吉は磁馬たちを見ると、片手を上げた。
「見つかったか」
「見つかった」
千代が答える。
「そりゃよかった。なら団子だな」
磁馬は小銭袋を出そうとした。
辰吉が手で止める。
「一本は祝いだ」
「いいの?」
「花びら相手に勝ったんだ。祝いくらいある」
磁馬は少し迷って、受け取った。
団子は温かかった。
たれが甘く、少し焦げている。
磁馬は一口食べて、目を細めた。
「うまい」
辰吉は満足そうに笑った。
「そうだろ」
千代も団子を一本買ってもらい、桜の下で食べた。
花びらがまた降る。
磁馬は紙包みを鞄の奥にしまい、しっかり留めた。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
そして、スケッチ帳を開いた。
桜並木を描き直す。
朝よりも花が減っている。
道には花びらが増えている。
千代は横に座っていた。
「もう一回描くの?」
「うん」
「散ってきたから?」
「うん」
「終わっちゃうね」
磁馬は桜を見上げた。
「終わるところも、ある」
千代は少し黙った。
風が吹いた。
花びらが、磁馬の紙の上に落ちた。
磁馬はそのまま描いた。
花びらの形を避けず、上から線を足す。
枝。
道。
川へ向かう坂。
小さな橋。
紙包み。
団子屋の煙。
千代の薄桃色の着物。
描いているうちに、紙の中の桜が変わり始めた。
現実では、まだ花が残っている。
けれど絵の中では、花びらがどんどん落ちていく。
枝が見える。
道が花びらで埋まる。
川に薄桃色が流れる。
団子屋の前の人影が少なくなる。
千代が息をのんだ。
「散ってる」
磁馬は手を止めなかった。
「うん」
「絵の中だけ、早い」
「春が急いでる」
「なんで?」
磁馬は答えられなかった。
ただ見えた。
桜の終わりが、絵の中で先に来ている。
千代は絵と本物の桜を何度も見比べた。
現実の桜は、まだ美しく揺れている。
絵の桜は、もう終わりに近い。
千代の顔が少し曇った。
「先に見たくなかったかも」
磁馬はペンを止めた。
「ごめん」
千代は首を振った。
「でも、毎年こうなるんだよね」
「うん」
「わかってるのに、見ると寂しい」
磁馬は紙の中の散った道を見た。
「終わるのがわかるから、今が見える」
千代は黙っていた。
そして、ゆっくりうなずいた。
「じゃあ、今も描いて」
磁馬は顔を上げた。
「まだ咲いてる今」
「うん」
磁馬は新しい線を足した。
絵の中の終わりかけた桜の上に、今の桜を重ねる。
満開に近い枝。
散り始めの花。
道で団子を食べる千代。
紙包みを探す二人。
辰吉の笑う顔。
終わりだけではなく、途中も描く。
散るまでの時間を描く。
すると、絵の中の桜は不思議な姿になった。
咲いている。
散っている。
ほとんど散ったあともある。
同じ並木なのに、春の何日分も重なっていた。
千代はじっと見た。
「これ、桜が長生きしてるみたい」
「そう見える?」
「うん」
辰吉も近づいてきて、絵をのぞいた。
「おいおい、もう散っちまってるじゃないか」
「絵の中だけ」
千代が言う。
辰吉は目を細めた。
「でも、こっちじゃまだ団子が売れるな」
千代が笑った。
磁馬も笑った。
夕方が近づく。
桜の色が少し濃く見える時間だった。
磁馬は小さな紙を取り出し、千代を描いた。
桜の下で花びらを数える千代。
川の橋で紙包みを見つける千代。
団子を食べる千代。
全部を一枚に入れる。
紙の中の千代の肩に、花びらが一枚落ちた。
磁馬はそれを差し出した。
「これ」
千代は両手で受け取った。
「くれるの?」
「手伝ってもらったから」
千代は絵を見つめた。
「この花も散る?」
「少しだけ」
「全部は?」
「たぶん、散らない」
千代は少し笑った。
「たぶんか」
磁馬も笑った。
辰吉には、団子屋と桜の絵を渡した。
煙の向こうで桜が散る絵だった。
辰吉は腕を組んで眺めた。
「店に飾るか。客が増えるかもしれない」
「団子がおいしいから増える」
「うまいこと言うね」
磁馬は鞄を持った。
紙包み。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
全部ある。
桜並木は夕方の光の中で、まだ散り続けていた。
千代が言った。
「また来る?」
磁馬は桜を見た。
「春なら」
「来年?」
「たぶん」
千代は笑った。
「私、来年も数えてるよ」
「うん」
磁馬はうなずいた。
千代は手を振った。
辰吉も団子の串を持った手で軽く振った。
磁馬は並木の道を歩き出した。
花びらが肩に落ちる。
ひとつ。
またひとつ。
振り払わずに歩いた。
スケッチ帳の中で、桜は先に散っていた。
でも、現実の桜はまだ少し残っている。
その差が、磁馬にはとても大事に思えた。
終わりを見ても、
今がなくなるわけではない。
むしろ、今の輪郭が濃くなる。
磁馬は橋の方へ下りる坂を振り返った。
千代がまだ桜の下にいる。
花びらを数えている。
何枚目かは、もう本人にもわからないかもしれない。
それでも数えている。
磁馬は小さく手を振り、歩き出した。
春は、絵の中で先に終わった。
けれど桜並木には、
まだ少しだけ、今日の花が残っていた。
コメント
1件
みぅです🥀 第7話、ゆっくり読ませてもらいました…。 桜が散る中で、紙包みを探す磁馬くんと千代ちゃんの優しい時間、すごく好きです。絵の中だけ先に春が終わっていくって、なんだか切なくて、でもその分“今”が濃くなる感じがした。千代ちゃんの「終わるのがわかるから、今が見える」って言葉、すごく響きました。 散るところも、散ったあとも、全部ちゃんと描く磁馬くんの眼差しが素敵だった。来年また会えるといいな、って心から思いました。