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夜の川沿いで顔を合わせてから、三日。遥は自分の部屋にいても、外にいても、ずっと同じ灰色の靄の中にいた。
眠っても眠っても、身体の奥がざらついたまま治らない。
胸の奥では、あの路地の冷たい空気と、日下部の声だけが何度も再生されていた。
スマホの通知は増え続けていた。
「今どこ」
「話したい」
「無事か」
どの文字も、ただの言葉のはずなのに、視界に入るだけで心臓が軋んだ。
指先は、まるで他人のものみたいに冷えて動かなかった。
日下部に返事をすれば、また息ができなくなる。
その確信だけが、遥を縛っていた。
――夕暮れ。
学校のグラウンドの向こう、部活の声が薄く響く時間。
授業が終わっても帰れなくて、人気のない中庭をさまよっていたときだった。
背中に視線が刺さる。
嫌な予感と同時に、懐かしい鼓動が跳ねる。
「……遥」
振り向いた瞬間、喉がきゅっと締まった。
日下部が立っていた。
制服の襟を乱したまま、肩で息をしている。
探していたのだと、すぐにわかった。
逃げようと思った。
でも足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
日下部は一歩、また一歩と近づき、遥の正面で立ち止まった。
その目は怒りでも憐れみでもない。
ただ、ひどく必死で、怖いほど真っ直ぐだった。
「何日も……どこ行ってたんだよ」
声が震えている。
「連絡しても、返ってこないし。
何をしてたか、どんな顔してたか……想像ばっかして、頭おかしくなりそうだった」
遥は唇を噛んだ。
その必死さが、息苦しかった。
「……べつに」
それしか出てこない。
日下部は眉を寄せ、低く息を吐いた。
「なあ、俺は何をすればいい。
おまえが傷だらけで戻ってきても、俺は勝手に安心なんかできない」
その言葉が、遥の胸をざくりと切った。
怒鳴り声でもない、淡々とした残酷さが、逃げ場を塞ぐ。
「俺はおまえに命令したいわけじゃない。
ただ……消えないでくれ。
頼む」
それは懇願というより、祈りのようだった。
遥は目を逸らした。
何かを言えば、すべてを壊してしまう気がした。
蓮司の薄笑いが脳裏をよぎる。
「拾われてるだけだろ」
耳の奥で、その声がまた囁く。
胸が痛い。
「……俺なんか、どうせ」
かすれた声が、勝手に漏れた。
日下部は小さく首を振る。
「それでもいい。
おまえがここにいるなら、俺は何度でも探す」
言葉が、深く突き刺さる。
痛い。
でも、不思議と暖かい痛みだった。
風が二人の間を抜けていく。
遠くで部活の声が消えていく。
世界はいつも通り動いているのに、自分たちだけが別の時間に取り残されているようだった。
日下部がそっと手を伸ばした。
触れはしない。
ただ、そこにあるだけ。
遥はその手を見つめながら、何も言えなかった。
まだ返事をする準備なんてできていない。
けれど、その沈黙を日下部は責めなかった。
その無言が、遥の胸の奥で、ほんのかすかな灯りになった。