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夜更けの住宅街は、どこも眠ったように静まり返っていた。
日下部は深く息を吐き、足を止める。目の前には、暗い影を落とした二階建ての家。玄関灯は消え、家全体が眠りの底にある。
ポケットの中の手が汗ばんでいた。帰るべきか、と一瞬よぎる。だが蓮司の言葉が耳の奥でまだくすぶっている。
――お前、ほんとに知らないの? 遥、いま毎晩みたいに……。
その先を飲み込んだ蓮司の薄い笑み。
あの笑みを思い出すたび、胸の奥に鈍い焦りが広がる。
立ち止まっている時間はなかった。
門を抜け、庭の奥へ。
外壁に沿うように伸びる低い植え込みを避け、足音を殺して裏手へ回る。
二階の右端。遥の部屋の窓。
薄いカーテン越しに、灯りは見えない。
けれど、その奥にいることだけは、なぜか確信していた。
足元に転がる小さな砂利をつまみ上げ、日下部は一度だけためらった。
軽く指先で弾く。
――コツ。
控えめな音が静かな夜気に溶けていく。
数秒、何も起きない。
心臓がいやに大きく脈を打つ。
もう一度、少し強く。
――コツン。
そのとき、カーテンがわずかに揺れた。
影が近づき、窓がほんの数センチ開いた。
月明かりに縁取られた細い顔がのぞく。
「……日下部?」
囁くような声。眠気ではない、どこか遠い響きがあった。
「俺だ」
声を潜めながら、日下部は視線を上げる。
「話したい。少しだけでいい」
遥は短く息を呑んだ。
その沈黙が、いまの遥の状態を雄弁に語っている気がした。
やがて、窓がゆっくり開く。
夜風がカーテンをふわりと持ち上げ、淡い月光が遥の頬を照らした。
目の下の影は深く、頬は少しこけている。
「……なんで」
掠れた声。
「こんな時間に」
「会いたかった」
気づけば、その言葉が口をついていた。
遥はわずかに眉を寄せたが、拒む気配はない。
沈黙が二人を包む。
その中で、日下部ははっきりと悟った。
この窓辺に来たのは、自分の衝動だけじゃない。
蓮司が投げた小さな棘――それが確かに二人をここまで引き寄せたのだ。
「……降りてこれる?」
日下部の問いに、遥は短く目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
その仕草のどこかに、かすかな救いを求める色が滲んでいた。