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#大人ロマンス
桃下結衣
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「宮坂遼一が、オペ適応患者の選択と優先順位を操った……。目的はもちろん、お金ね」
耳に流れ込んだ麗香の声。私は固唾を呑み、険しい表情の親友をじっと見つめる。
麗香の言葉を聞いた直江先生は頷き、ほくそ笑んだ。
「その通り。宮坂遼一のもとに金が流れてる。
俺が思うに、長谷川秀一郎の件は氷山の一角でしかない。俺がここへ異動する以前、さらに過去の症例を遡れば、どっさどっさと零れ落ちてくるんじゃないかぁ。帯に巻かれた札束がね」
「遼が、お金のために?」
そんな、まさか……
だって、そんなこと遼ができるはずない。
頭では否定しているのに、次第に顔が青ざめていくのを感じる。
「……無理よ。遼にそんな力はない。そんな大それたことを実行できる権限なんて、遼が持ってるはずないじゃない!」
首を大きく横に振り、声を荒らげる。
「亜紀……」
私を気遣う麗香の視線が、痛く心に突き刺さる。
「……そう、宮坂遼一にはそんな力はない。彼はあくまで実践と、それに至るまでの下拵えをするだけさ。最終的なオペのゴーサインは、誰が出す?」
「誰って……」
壁にもたれ掛かる麗香は口元を歪め、目を伏せたまま苦々しく声を落とす。
「……最終的な決定権は、主任教授の藤堂教授にある。藤堂教授には誰も逆らえない。たとえそれが、倫理に反する選択であろうとね」
「藤堂教授……」
『藤堂教授がえらく君のご主人の腕を買っているようだが』
先ほど聞いた佐橋教授の言葉が、頭の中を駆け巡る。
まさか……
そんなことって……
刃物を突きつけられたような戦慄が走り抜けた。
「間違いなく、藤堂主任教授と宮坂遼一は繋がってる。どんな経緯で二人が繋がったのか、何を企んでいるかまでは知らないけどさ。
教授とご主人、操っているのはどっちなんだろうねぇ。
――ねっ、俺に後をつけられても損はしない、バイオセーフティーならレベル4のビッグニュースだったでしょう?」
直江先生は青ざめる私を見つめ、ククッと喉を鳴らした。
「ビッグニュースなんてもんじゃないわよ! 大体、どこでそんな危険な情報を手に入れてきたのよっ」
麗香は片眉を引き上げ、直江先生を見据える。
「もちろん、外部からに決まってんだろ? 俺の情報網を舐めてもらっちゃ困る。この世の中には、俺の役に立ちたがってる人間が大勢いるんだよ」
「あぁ、なるほど。どうせあんたのことだから、おつむの弱いどこぞの令嬢か、夜の女から聞き出したんでしょう? ベッドの上で組み敷いて」
得意げに言う直江先生を横目に、麗香は呆れたように言葉を吐き捨てた。
「まぁね。従順で可愛い俺の彼女たちが、喜んで裏情報を差し出してくれるから。プライドは高くても、おつむの弱い方が可愛げがあるんだよ。特に遊び相手はね。
中途半端に頭がよくてプライドの高い女が一番扱いづらい。陰険でどこまでも貪欲。……浅倉楓みたいにさ」
直江先生は平然と言って、口元に笑みを浮かべる。
浅倉楓……
同じ名前でも、目の前にいる男が口にすると毒々しさが増す。
私は唇を引き結び、ベッドに腰掛けた膝の上に行き場のないため息を落とした。
「それにしても、このご時世にもそんなヒトラー政権が根強く残っていたなんてね」
麗香は後ろで束ねた長い黒髪の先を胸元で弄りながら、誰に聞かせるでもないような声でぽつりと言う。
「医局制度が崩壊したって主任教授の権力は絶対だ。目をつけられたら慰みの地位だけ与えられ、そのまま島流し。教授たちだって逆らえない。
医者だけじゃなく『先生』と呼ばれる人種の腹黒さは格別だからなぁ。俺も含めてね」
「あら、そこだけは自覚あるのね。
藤堂主任教授と宮坂遼一。一体何を企んでるのかしら……。
亜紀、あんた何か知らないの? お金の動きに不審な点があったとか、妙に羽振りがよかったとか……」
眉間に縦皺を刻む麗香が、口を閉ざす私を見つめ、遠慮がちに声を掛けた。
お金に関する不審な動き?
私たちは夫婦であっても、お互いの給与も貯蓄も詮索したことがない。
それは夫に収入額を隠したいわけではなく、結婚当初、それが当然であるかのように夫が一方的に決めた夫婦間のルールだからだ。
完全に財布が別々であることに、寂しさを感じたことがないと言えば嘘になる。
けれど、共働きならばそんな夫婦もいるだろうと、今では気にも留めなくなった。
――そう、「緊急の呼び出しが多い外科医ならば、それくらいの貯蓄があるのだろう」と、母に渡した五千万円という金額の大きさにさえ疑いの念を抱けないほど、私たちは金銭面において無干渉だった。
もしかして、そのお金も汚れたお金なの?
なぜ、そんな危険な橋を渡ってまでお金が必要なの?
藤堂主任教授と何をしようとしているの?
まさか……
「循環器病センター……」
床の一点に視線を落とす私の口から、無意識に声が漏れた。
「え? ……なに?」
呟いた声は麗香の耳まで届かなかったらしく、彼女は目を大きく開いて問い返す。
「あ……ううん。ごめん、思い出してみたけど思い当たることないや。日常生活でも目立って浪費する人じゃないし」
突如頭に浮かんだ不吉な思考をかき消し、無理に作った笑みで誤魔化す。
「そうか……そうだよね。そんな大盤振る舞いな生活してたら、亜紀だって気づくはずだもんね。目的は派手な生活じゃないってことか……」
そう言う麗香は仰ぐように天井へ目を向け、相変わらず難しい顔をしている。
「それにしても、酷い男だよな。亜紀ちゃんにも悪事の片棒を担がせてきたんだから」
直江先生は話題を変え、長い足を組み直す。
「私に悪事の片棒を? ……どういうこと?」
私は訝しげに彼を見て、首を傾げた。
「長谷川秀一郎と同じように、今までも亜紀ちゃんに直接精密検査を依頼してきた患者……それも早急な依頼の中に、必ずターゲットの患者がいたはずだ。
他の医師なら渋る患者だとしても、亜紀ちゃんなら二つ返事で事が済む。下手な疑いもかけられない」
遼から直接依頼を受けた急ぎの患者?
そんなの、どんな症例で、何件受けたかなんていちいち数えていない。
愕然として、見開いた目は瞬きすら忘れる。
「じゃあなに? 金のために妻まで利用したってこと!? ……待って。それだけじゃないわ。坂本先生の患者だと知りながらカテをやった私まで、共犯者にされたじゃないの」
麗香は苦虫を噛み潰したような顔で、声を絞り出した。
「……麗香、巻き込んでごめん。あの日は、私の体調を気遣って検査を代わってくれただけなのに……」
「えっ? 違う違う! 亜紀は何も悪くない。亜紀が一番の犠牲者じゃない。この話が院内の誰かの耳に入らなきゃいいけど……」
顔を強張らせる私を宥めるように言った親友は、語尾を濁して唇を噛む。
麗香の表情の意味は分かる。
もし遼のしていることが明るみに出れば、不正に手を貸したとして、妻である私も査問会議にかけられ、それなりの処罰を下されるかもしれない。
『強すぎる野心はいつか身を滅ぼす』
この先を予告するような、佐橋教授の生々しい言葉が頭の中でリフレインする。
遼……
まさかあなた……万が一『その時』が来たときは、私も道連れにするつもりで?
そんなことになれば、私の人生がまた狂ってしまう。
循環器病センターにお母さんを連れて行く計画も、全て奪われてしまう。
絶望的な感情が渦を巻く。
もう引く血の気も残っていないはずの顔に冷たい汗が滲み、足元がぬかるみに嵌ったように、目の前がぐらりと揺れた。
「宮坂遼一に対する主任教授のひいきは、同じ医局員が見れば一目瞭然。当然、宮坂遼一への嫉妬が渦巻いてるだろうし。
火のない所に煙は立たぬ。金が流れているという決定的な証拠がないだけで、陰では疑われてるに決まってるさ。まぁ、主任教授に歯向かおうとする馬鹿がいない限りは、結局陰口のままで終わるだろうけどね」
「その馬鹿が出てこないとも限らない。とにかく、時間の問題ね。亜紀、あんたは何も知らずに加担させられただけ。離婚して関東に逃げてしまえば、あんたに火の粉は飛ばない可能性もある」
麗香は私を見つめ、慎重に言葉を置いていく。
コメント
1件
うわっ……第143話、めっちゃ重かった……。亜紀の視点で少しずつ明かされる夫・遼の裏の顔、それに巻き込まれてるかもしれないって気づいた時の絶望感がひしひし伝わってきたわ。直江先生の軽い口調と麗香の冷静な分析が逆に不気味で、ゾッとした。藤堂教授との繋がりとか「循環器病センター」の単語とか、まだまだ伏線ありそうだし、続きが気になりすぎる🔥 柏木さん、いつもながら人間関係の描き方リアルでガチ刺さりです……!