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第9話 夜行列車の窓
夜行列車の窓は、外の景色を少しだけ遠く見せた。
町の灯りが流れていく。
田んぼの暗がり。
小さな駅。
踏切の赤い光。
遠くの家の窓。
それらが、列車の揺れに合わせて、
すうっと後ろへ流れていく。
磁馬は窓際の席に座っていた。
膝の上にはスケッチ帳。
右手には細軸のペン。
左手は、鞄の留め具に触れている。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
列車は古かった。
座席の布は少し擦れていて、
窓の枠には指で触れた跡が残っている。
網棚には荷物が並び、
通路の向こうでは誰かが小さく寝息を立てていた。
夜の列車は、
昼の列車よりも人の気配が濃い。
話さない人の気配。
眠ろうとして眠れない人の気配。
どこかへ向かう理由を、
胸の奥にしまっている人の気配。
磁馬は窓を見た。
「いいなあ」
小さく言って、
ペンを動かす。
窓の形。
流れる灯り。
座席の端。
向かいに置かれた布袋。
通路を歩く車掌の靴。
線を置くたび、
列車の揺れが紙にも伝わる。
まっすぐ引きたい線が少し曲がる。
けれど、その曲がりが夜行列車らしかった。
向かいの席の少女が、
磁馬の手元を見ていた。
肩の少し下で髪を結び、
ベージュの上着を着ている。
膝の布袋を両手で押さえていた。
「景色、描いてるんですか」
磁馬は顔を上げた。
「うん」
「外、暗いのに」
「暗いから、少しだけ見える」
少女は窓を見た。
ちょうど小さな駅を通り過ぎるところだった。
一瞬だけ、駅名板が見えて、
すぐに流れて消えた。
「私、何も見えません」
「今の駅は見えた」
「一瞬だけ」
「一瞬だけのものは、描くと残る」
少女は少し考えた。
「絵描きさん?」
「たぶん」
「たぶん?」
「描いてるから」
少女は少し笑った。
「私は真帆です」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「珍しい名前」
「よく言われる」
真帆は布袋を抱え直した。
列車が少し大きく揺れる。
磁馬のペン先が紙から離れた。
その瞬間、
ペンが指からすべった。
ころ。
座席の上を転がる。
磁馬は手を伸ばした。
届かない。
ペンは座席と壁の間に入り、
さらに奥へ滑った。
かつん。
小さな音がした。
それきり、見えなくなった。
磁馬は固まった。
真帆も目を丸くした。
「落ちましたね」
「落ちた」
磁馬はすぐに座席の下をのぞいた。
暗い。
細い隙間がある。
埃と紙片が見える。
でもペンは見えない。
磁馬は鞄を押さえながら床に膝をついた。
「探す」
真帆が身を乗り出す。
「席の下ですか」
「うん」
「次の駅で明るくなるかも」
「それまで待つ」
磁馬は床を見たまま言った。
「見つかるまで降りない」
真帆は少し驚いた。
「目的地、過ぎても?」
「うん」
「大事なペンなんですね」
「大事」
「一本だけ?」
「ほかにもある。でも、あれはあれ」
真帆はしばらく磁馬を見ていた。
それから、自分の布袋を横に置き、
座席の下をのぞいた。
「手伝います」
「いいの?」
「夜行列車で退屈だったので」
そう言う声は、
少しだけ明るかった。
二人で座席の下を探す。
磁馬は指を入れようとして、
列車の揺れで手を引っ込めた。
真帆が布袋から小さな櫛を出した。
「これで届くかも」
「大事なもの?」
「大事だけど、ペンほどじゃないです」
真帆は櫛を隙間に入れた。
かさ。
何かに当たる。
磁馬は息を止めた。
出てきたのは、
古い切符の端だった。
真帆はそれを見て、
少し笑った。
「違いました」
「うん」
磁馬は切符の端を拾い、
車掌に渡すためにポケットへしまった。
通路の向こうから、車掌が歩いてきた。
灰色の制服。
深めにかぶった帽子。
手には小さな灯り。
車掌は二人を見て足を止めた。
「何かお探しですか」
磁馬は顔を上げた。
「ペンを落としました」
「座席の隙間ですか」
「はい」
車掌は慣れた様子でしゃがんだ。
「この型の座席は奥へ入りやすいんです。少々お待ちください」
車掌は小さな灯りを隙間へ向けた。
光が細く入る。
埃が浮かぶ。
誰かの落とした飴の包み。
短い糸。
小さな硬貨。
ペンは見えない。
車掌は静かに言った。
「奥の支えに引っかかったか、床下近くまで入ったかもしれません」
磁馬の顔が少し沈む。
真帆が聞いた。
「取れますか」
「駅に停まった時なら、座席横の板を少し外せます」
磁馬は顔を上げた。
「次の駅?」
「あと二十分ほどです」
「待ちます」
車掌はうなずいた。
「それまでは、手を奥へ入れないでください。揺れますので」
「はい」
車掌は通路を進んでいった。
列車は夜を走り続ける。
磁馬は席に戻った。
ペンがない右手が少し落ち着かない。
鞄には別のペンもある。
でも、今落ちたペンで描いていた線は、
そのペンの線だった。
途中で替えると、
夜の揺れが変わってしまう気がした。
真帆は窓の外を見た。
「絵、続き描かないんですか」
「ペンが戻ったら」
「他のペンじゃだめ?」
「だめではない」
「でも?」
「さっきの線が、待ってる」
真帆はスケッチ帳を見た。
窓。
灯り。
途中で止まった線。
「線が待つんですか」
「たぶん」
真帆は少し笑った。
「変ですね」
「よく言われる」
列車は小さな鉄橋を渡った。
音が変わる。
がたん。
がたん。
がたん。
窓の向こうで川が一瞬だけ光った。
磁馬は思わず手を伸ばし、
ペンがないことを思い出す。
真帆はそれを見て、
自分の布袋を開いた。
中には小さな菓子が入っていた。
「食べますか」
磁馬は真帆を見た。
「いいの?」
「母が持たせてくれました。多すぎるので」
磁馬は少し遠慮したが、
腹が小さく鳴った。
真帆は聞こえたらしく、
菓子をひとつ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
磁馬は受け取って食べた。
ほんのり甘く、
少し乾いた味がした。
夜行列車の中で食べると、
不思議においしかった。
「うまい」
真帆は嬉しそうにした。
「よかった」
二人は少し黙った。
眠っている人の寝息。
車輪の音。
遠くの汽笛。
窓の外を流れる夜。
真帆が言った。
「私、遠くへ行くんです」
磁馬はうなずいた。
「うん」
「親戚の家です。しばらく」
「寂しい?」
真帆は膝の上の布袋を見た。
「まだ、よくわかりません」
磁馬はそれ以上聞かなかった。
わからない気持ちは、
急かすと壊れる。
真帆は窓を見た。
「夜の景色って、知らない町でも全部同じに見えます」
「うん」
「でも、駅だけ少し違う」
「駅は、人が待つから」
真帆は磁馬を見た。
「待つ場所は違うんですか」
「うん。待ってるものが違う」
真帆は何か言いかけて、
やめた。
列車が速度を落とし始めた。
車掌の声が通路に響く。
次の駅が近い。
車内の人たちが少し動く。
荷物を直す人。
窓を見る人。
まだ眠る人。
磁馬は座席の隙間を見つめた。
真帆も身を乗り出す。
列車が駅に入る。
速度が落ちる。
灯りが窓を流れる。
ホームの柱が通りすぎる。
やがて、列車が止まった。
車掌が来た。
「今なら見られます」
車掌は道具を取り出し、
座席横の細い板を外した。
磁馬は息を止めた。
灯りが奥へ入る。
そこに、
細軸のペンがあった。
座席の支えの横に引っかかっていた。
車掌が細い棒で寄せる。
一度、奥へ逃げそうになる。
真帆が小さく声を出した。
「そっちじゃない」
磁馬の手が膝の上で固まる。
車掌は落ち着いていた。
もう一度、棒を入れる。
ペンの軸をそっと押す。
手前へ寄せる。
ころ。
ペンが床に出てきた。
磁馬は両手で拾った。
「見つかった」
声が夜の車内にやわらかく落ちた。
真帆が笑った。
「よかった」
車掌も板を戻しながらうなずいた。
「次からは、窓側の段差にお気をつけください」
「はい」
磁馬は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
列車の外で、乗り降りの声がする。
真帆は窓を見た。
「この駅、少し明るい」
磁馬も見た。
ホームに人が立っている。
売店の灯り。
柱の影。
遠くに見える駅舎。
夜の中に浮かぶ、
小さな待つ場所。
発車の合図が鳴る。
車掌が通路を歩いていく。
列車がまた動き出した。
磁馬はペンを握った。
戻ってきた重さ。
細い軸の温度。
「続き、描けますね」
真帆が言った。
「うん」
磁馬はスケッチ帳を開いた。
途中で止まっていた窓の線へ、
同じペンで戻る。
車窓の夜。
流れる灯り。
駅の姿。
真帆の横顔。
車掌の灯り。
座席の隙間。
そして、
落ちて戻ったペン。
紙の中で、
夜行列車の窓が少しずつ変わった。
外の景色が流れる。
駅が近づく。
ホームの灯りが窓を横切る。
列車が止まる。
また動き出す。
絵の中だけ、
何度も駅に着き、
何度も夜へ出ていく。
真帆はそれを見ていた。
「動いてます」
「うん」
「列車みたいに」
「列車だから」
「でも絵です」
「うん」
磁馬はペンを止めなかった。
真帆の布袋も描く。
膝の上の手も描く。
遠くへ行く前の、まだ決まらない顔も描く。
真帆は少し恥ずかしそうにした。
「私も描くんですか」
「うん」
「変な顔じゃないですか」
「今の顔」
「今の顔って」
「まだ、わからない顔」
真帆は黙った。
それから、小さく笑った。
「それなら、たぶん合ってます」
列車は夜を走った。
窓の外に、
また小さな町の灯りが見えた。
磁馬は描き続ける。
やがて、真帆が眠そうにまばたきをした。
布袋を抱えたまま、
少しずつ頭が傾く。
磁馬はスケッチ帳を閉じない。
静かに、
眠りかけの真帆と、
夜行列車の窓を描いた。
次の駅が近づくころ、
真帆ははっと目を覚ました。
「今、寝てました?」
「少し」
「変な顔してました?」
「寝る顔」
真帆は困ったように笑った。
「それも描いたんですか」
「少し」
「消してください」
「消さない」
「どうして」
「列車の中で寝たことも、旅だから」
真帆は言い返せず、
窓の外を見た。
その駅で、
真帆は降りることになっていた。
車掌が近くを通り、
到着を知らせる。
真帆は布袋を持った。
立ち上がる前に、
磁馬を見た。
「ペン、見つかってよかったですね」
「うん。手伝ってくれてありがとう」
磁馬は小さな紙を出した。
そこに、
夜行列車の窓を見ている真帆を描いた。
布袋を膝に置き、
外を流れる灯りを見ている姿。
髪の結び目。
ベージュの上着。
少し不安で、
少しだけ前を向いた顔。
紙の中の窓では、
灯りがゆっくり流れていた。
真帆は両手で受け取った。
「これ、私?」
「うん」
「動いてる」
「夜行列車だから」
真帆は笑った。
でも、
少しだけ泣きそうにも見えた。
「ありがとうございます」
列車が駅に入った。
真帆は通路へ出る。
降りる前に振り返った。
「磁馬さん」
「うん」
「待つ場所は、人で違うんですよね」
「うん」
「じゃあ、私の場所も、どこかで待ってますか」
磁馬は少し考えた。
「たぶん」
真帆は笑った。
「また、たぶん」
「うん」
扉が開く。
真帆はホームへ降りた。
窓の向こうで、
真帆がこちらを見ている。
磁馬は手を振った。
真帆も紙を胸に抱え、
小さく手を振った。
列車が動き出す。
ホームが流れる。
真帆の姿が後ろへ行く。
灯りが線になる。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
最後の線を入れる。
ホームに立つ真帆。
窓の中の磁馬。
座席の隙間から戻ったペン。
夜の駅。
また走り出す列車。
紙の中で、
夜行列車は何度も窓を流していく。
ペンが落ちる。
探す。
見つかる。
駅に着く。
誰かが降りる。
また走る。
磁馬はペンをしっかり握った。
鞄の中を確かめる。
スケッチ帳。
小銭袋。
訳機。
ペンケース。
ある。
手の中のペン。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
夜行列車は、
また暗い景色の中へ進んだ。
磁馬は窓に映る自分の顔を見た。
少し眠そうで、
少しだけ嬉しそうだった。
窓の外では、
次の駅の灯りが、
まだ遠くで待っていた。
於田縫紀
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コメント
1件
ああ、第9話…すごくよかったです。夜行列車のあの独特の空気感が、磁馬さんと真帆ちゃんのやり取りを通じてじんわり伝わってきました。特に、ペンが座席の隙間に落ちてからの二人のやりとりが丁寧で、一瞬一瞬が大事に描かれている感じがしました。「待つ場所は人で違う」って言葉、心に残りました。真帆ちゃんがあげたお菓子を「うまい」って言う磁馬さんが、なんだかすごく人間らしくて好きです。最後に真帆ちゃんがもらった絵、きっと宝物になりますね。