テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
私は有栖川郁太郎──と名乗ることにしている。この名がどこから来たのか、正確に思い出す必要はない。名は器、器に水さえ入れば喉は潤う。私が語るのは、器の形ではなく、そこに残った微かな水の匂いについてだ。
あの街は、地図の余白に押し込められたように、小さく、湿って、透明だった。
昼は陽に灼かれ、夜は風に鳴り、朝は硝子が汗をかく。工房は通りの両側に並び、薄緑や淡い青のかけらが路地にこぼれ、猫や子どもがそれを踏まないよう、つま先で踊るように進んだ。硝子は生き物だ、と誰もが言った。熱すれば呼吸し、冷ませば眠る。火の前に立つ者は、硝子の鼓動を耳で聴けるのだと。
私は、そこに居なかったはずだ。
少なくとも、私の記憶は、最初の一歩をどこで踏み外したのかを明瞭には示さない。私は旅人で、通りすがりで、偶然に立ち寄ったのだ、と何度も繰り返し書き付けてきた。けれど私は、工房の鍵の重さを知っている。鋳物の鈍い冷たさが、夜明け前の手のひらにどのように沈むかを、知ってしまっている。偶然という言葉が、時折、不自然に笑う。
最初の失踪は、六月の末だった。
雨の続いたあと、空気の底に水の匂いが沈殿し、草の先に重たい滴がぶら下がっていたある朝、街一番の風鈴師が姿を消した。店には仕掛け途中の作品が残され、炉は消えていた。棚の上の棒には、焼き色のむらがまだ生々しく、指の跡が、不器用に曲がった雲のように残っていた。人は言った、夜更けの間にふっと出ていったに違いない、ふっと、吹き消すように、と。
工房には、音が残っていた。
空に吊るされた無数の声が、風のないはずの朝に微かに触れ合い、細い音の面を作っていた。音は皮膚に触れる。触れられた皮膚は記憶を開ける。私の耳はそこで初めて、自分自身から離れて、別のものの上に乗せられたような落ち着きのなさを感じた。ああ、これだ、と私は思った。これが、街の中に流れる秘密の表面張力。破れば、濡れる。
誰かが言った。職人は借金に追われていたのだと。
誰かが言った。恋人がいたのだと。
誰かが言った。いや、子どもが病気で、薬が、と。
人は、物語を持ち寄って静けさを埋めることに長けている。静けさは恐ろしい。音のないところに本当の形が現れるから。彼らは硝子のかけらのように物語を拾い集め、光の角度を変えて眺めた。誰がもっとも美しく反射するかを競い合いながら。
二人目が消えたのは、一週間と経たないうちだった。
彼は教えることに長けた職人で、若い者たちの面倒をよく見た。通りの角の小さな店で、宵になると子どもたちにガラス球を転がして見せた。掌の上をころころと走る透明な惑星。中に閉じ込められた銀の糸が、小さな稲妻のように光る。誰もが彼を好んだ。彼が消えた朝、店の前に、転がり出た球がひとつ、雨に濡れていた。猫が近づいて鼻先でつつき、それを恐れ、逃げる。猫の目は正直だ。
私は、二人ともを知っていた、と書くべきだろうか。
いや、私は誰とも知り合いではなかった、はずだ。街の者たちは、見知らぬ者に冷たくはなかったが、親しくもなかった。私は買い物をし、宿賃を払った。夜は早々に二階の窓に灯を落とし、床板のきしみを数えた。それでも私は、二人目の職人が、青の調合に癖があり、ほんの僅かに鉄が混ざると不機嫌になったことを覚えている。覚えてしまっている。記憶というものは、時に、所有者の承諾を得ずにものを持ち去る。
街は、呪われているという噂を作るには、あまりに明るかった。
昼間の硝子は正直だ。陽に灼かれ、目を細めるほどに光を返す。人は光を信じる。暗闇ではなく、まぶしさの中にこそ真実があるのだと。そして、まぶしさは盲目に似ている。目の中に白い花が咲くと、足元が見えなくなる。誰かが笑っていた。誰かが祈っていた。誰かが、夜の風に耳を澄ませていた。
三人目の朝、私は工房の裏口に立っていた。
なぜそこに、という問いは、答えを与えるほどの価値を持たない。私の靴は濡れていた。雨はとっくに止んでいるのに。裏口の鍵は、閉めた者の性格を伝える。きっちりと、所定の位置へ回され、余計な力がかけられていない。几帳面な手。だが、扉は少しだけ枠から浮いていた。木が膨らむ季節だったからだろう。軽く押せば、息を漏らすように開く。呼吸は扉にもある。
内側の空気は、冷たく、甘かった。
炉は眠っているのに、硝子の匂いがまだ温かい。工具の置かれた順序が、目を閉じても指で辿れるほどに整っている。私は、径の違う竿を一本ずつ持ち上げ、重さを量るように、風に音色を試すように、指先で支えた。そこに人の気配はない。だが、整えられすぎた空白は、誰かがすぐそこにいることの証拠だ。私がその証拠を集めたのか、誰かが私に集めさせたのか、そこは曖昧だ。曖昧さは、いつだって都合がいい。
四人目は、若かった。
彼は硝子の口を閉じるのが上手かった。職人の仕事は、始めることより終えることが難しい。火から離す、その最後の瞬間に、すべては決まる。緩やかに、だが確実に、形は失敗へと傾く。それを立て直す掌の温度、その一呼吸の長さを、彼は持っていた。彼が消えた夜、通りの風鈴は凪いでいた。風が止み、街が瞬きも忘れ、空が耳を澄ます。そういう夜には、音のない音だけが鳴る。
彼の工房の棚に、奇妙な風鈴がひっそりと吊られていた、と私が言うのは、余計なことだろう。
その鈴は、透明で、小さく、澄み、触れればよく笑った。口縁には細い線が走り、誰かの秘密のように閉じられていた。私はそれに触れた。指が、すこしだけ、痛んだ。嬉しかった。痛みは、忘却に抵抗する唯一の誠実さだ。私はその誠実さを好んだ。
街の者は、私を疑ったか?
いいや、まだ早かった。見知らぬ旅人は、ほどよく目立ち、ほどよく見過ごされる。私は日記をつけた。日記は偽物だ。人は、後で読み返されるために書くとき、真実を半歩だけ横にずらす。ずらしたことを隠すために、さらに詳しく書く。詳しさは、嘘の体温だ。私は、工房の音、通りの猫、パン屋の粉の匂い、宿屋の老婆のくちびるに付いた砂糖を、馬鹿みたいに詳しく書いた。書きながら、書かなかったことの輪郭を指で撫でた。
五人目が消えた朝、警吏が街に入ってきた。
長靴が、雨のない路地で音を立てた。音がすこし大きすぎた。怖がっている音だ。彼は賢明でも愚鈍でもなく、ただ仕事熱心だった。熱心さは、真実に触れる前に、必ず自分自身の靴紐を踏む。彼は人々に質問をした。昨夜どこにいたか。誰といたか。何を見たか。何を聞いたか。人は、問いに答えるとき、答えより先に話し相手の瞳の色を探す。瞳の色が暗ければ、明るい嘘を。明るければ、暗い真実を。街は、慎重に混ぜ物をした。
私は、呼ばれなかった。
それが不満だったか? いや、嬉しかった。私は、誰かに見つけられるように存在してはいなかった。私は、見つけるほうに回りたいと思っていた。何を見つけたいのかは、はじめから決まっていた。ものの形ではない、ものの形が失われる瞬間を。消える、という動詞の、音のない中心を。職人たちがどこへ行ったのか。それは問題ではない。彼らがどのようにこの街から剥がれたのか。爪先で、ゆっくり、裂け目を延ばすように。そこだけが、私の関心を占めていた。
私が、夜の工房に忍び込んだのは、どういうわけか二度だけだった、と書いておこう。
一度目、私は、竿の先に冷えた球を見つけた。まるで誰かが息を入れたまま忘れたように、それは閉じかけの口で固まっていた。灯りをつけず、私はそれを掌に転がした。世界は、暗闇でこそ正確だ。余計なものが見えないとき、人は自分の触れているものしか信じない。二度目、私は、窓辺に置かれた箱を開けた。中には、色の異なる砂が細く仕切られて入っていた。白、薄茶、灰、そして、白のくせに、白ではないもの。私はそれに指を浸し、はっとした。冷たいものの中に、とても浅い、体温があった。
誰かがつけた記録を読んだ、ということにしておこう。
紙の端に、仕事の癖が滲む。字は性格の生の断面だ。几帳面な字は、几帳面さのために嘘をつく。乱暴な字は、乱暴さのために正直になる。そこには、納品日と、素材の配合と、注文主の名が並んでいた。そこに挟まれた小さな紙片には、夜更けの約束が、名もなく括られていた。「風が変わったら、会いに行く」とだけ。風は気まぐれではない。気圧と地形と、何千もの力学で動く。つまり、約束は具体的だ。具体は、ひとを消す。
六人目の噂が、先に来た。
まだ誰も消えていないのに、次は誰だ、という空気が、街路の石畳の間から草のように伸び始めた。人は、未来の断面を先取りして恐れることで、現在の形を確かめる。恐れは輪郭線だ。私は、その輪郭線の内側に指を這わせ、紙地図をたどるような気持ちで歩いた。風鈴が鳴る。鳴るたびに、私は、名前を呼ばれている気がした。正確には、娼婦に呼ばれるように。来る? 来ない? 来たいでしょう? ああ、そのやり方を、私はよく知っている。
七人目、と人は言った。
だが、数を数えるのはいつも遅い。既に誰かは、数に含まれていない。街の誰もが顔見知りだと言いながら、名を呼ばれない者がいる。顔の輪郭が薄く、笑うときだけはっきりする者。彼らは最初から、消えるためにそこにいた。私はそのひとりの笑い声を、夜更けに聞いた。笑いは、部屋の隅に溜まる。灯りが届かないところで、形にならないものだけが、笑う。
警吏は、私に会いに来なかった。
代わりに、私は彼を見た。宿の向かいのパン屋で、彼は熱いパンを手に持ち、少しだけ笑っていた。仕事の顔ではない。あれは、救われたい者の顔だ。彼は救いを、仕事の外に求めている。仕事とは、救いを仕事の内に閉じ込めるための箱だ。箱が壊れると、救いは逃げる。逃げた救いは、人を追いかける。彼は、追われていた。
「約束は守った」と、誰かが言ったと聞いた。
誰が誰に、どの口で。私に尋ねるのは筋違いだ。私は、その約束を知らない。知らないはずだ。けれど私は、その言葉の重さを知っている。守られた約束は、いつだって誰かを消す。破られた約束は、いつだって誰かを生かす。生かされた誰かは、恩赦のような罪悪感を飼う。罪悪感は、うつくしい。ときに、硝子よりもうつくしい。光を通し、その通り道にだけ色を残す。
私は、街を去った。
ほんとうに? ここに、矛盾が生まれる。私は、街を去る前に、机の上に小さなものを並べたのだ。並べたことを、指の腹が覚えている。整列。間隔。中心線。小学校の黒板の罫書きのように、正確に。そこに置かれていたのは、何だったのか。記憶は、ここで濁る。小さく、透明で、軽く、涼しく、触れれば音がするもの。私は、それを集めたのか。私のもとに、集まってきたのか。どちらでも、結末は同じだ。
夜更け、風が一瞬だけ向きを変えることがある。
通りの端から端まで、音が連鎖する。耳は、音の源を見失う。すべての音が同時に始まり、同時に終わるように錯覚する。街は、ひとつの器になり、息をひとつ、する。私は、その瞬間に立ち会った。そこに居たのが、偶然か必然か、そんな区別に意味があるだろうか。私は、音の中に名を探した。誰の名でもない名。呼ばれることでしか存在できない名。たとえば、有栖川郁太郎のような。
私は、罪を告白していない。
それが必要だろうか。ここに書かれていることのどこまでが真実で、どこからが虚言で、どれほどが夢の断片の寄せ集めなのか。読者がそういう境界線を求めることを、私は知っている。だが、私が知るのは、境界線の上に立つ感覚だけだ。片足が濡れ、片足が乾いている。濡れた足は重く、乾いた足は軽い。歩けば、傾く。その傾きを矯正するふりをしながら、私は、傾いたまま進む。罪は、いつも傾いている。
では、街の失踪の原因は何だったのか。
言葉にすれば、たちまち文字がそれを食べる。食べられたものは、うつくしくない。私は、食べられていない形のまま、ここに置いておきたい。透明なものは、見えないからこそ、美しいのだ。見えないことが、存在しないことの証明にはならない。存在しないことが、罪がないことの証明にもならない。私は私を守るために、名を作った。名は盾だ。盾は、時に刃の形をしている。
最後に、ひとつだけ具体を置こう。
宿の机の引き出しの奥、薄い紙に包まれて、小さなものが並んでいる。朝の光が斜めに射し込み、紙の繊維が浮かび上がる。その上に、不揃いの円。小さな傷。ひとつひとつに、誰かの呼吸の跡がある。私はそれに触れない。触れれば、音がするから。音は、呼ぶ。呼ばれれば、行かなければならない。私は、もう、行かない。行かないことを、ここに書いておく。書いておけば、私は行かないだろう。たぶん。たぶん、ね。
警吏は、最後まで正しい場所を見なかった。
正しい場所は、地図には印がない。地図は、誰かの心に置かれる。私の心ではない。街の心でもない。風の心。風は、誰のものでもないから、地図には載らない。載らない場所で、ものは消え、音だけが残る。音は、証拠にならない。誰も、音には触れられないから。触れられないものに、罪は宿る。宿った罪は、うつくしい。ここまで、読み進めたなら、あんたにも少しは見えたはずだ。見えないものの輪郭が。
私は、ここで筆を置く。
この名が、私を守る限り。
この名が、私を告発しない限り。
そしてもう一度だけ、念のために書いておく。
私という語り手は、過去の自分に向けて語りかける影であり、ここに現れる名も街も人も、現実には存在しない。
だが、風が鳴るのは、いつだって現実だ。現実の音が、虚構を呼ぶ。虚構の名が、現実を振り向かせる。
その間に、私は立っている。濡れた足で、乾いた足で。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!