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私は有栖川郁太郎──と、ここではそう名乗っておく。
この名は私に都合のよい隠れ家で、わずかな影と音を蓄えるための器だ。
人は器の名を信じたがる。名があれば語られたことが固まると錯覚する。私は、その錯覚に住むことにしている。固まる寸前の気配だけが、私の体温に合うからだ。
豪雨の夜、街外れの温室は、雨脚を数える楽器になった。
ガラスの天井に叩きつける水の粒は、打楽器の練習のように規則と破綻を繰り返し、垂木のあいだで震え、土に沈み、泥に音を譲った。稲光が、外の世界を薄く刃のように切り取り、そこに温室だけを残した。世界の中心が、まるでそこに移動したみたいに、闇は周縁へ追いやられた。
私はそこにいたのか?
それほど自信をもって言えるほど、私の記憶は整っていない。私は、道に迷っていたことにしておく。雨宿りのために、町の灯を背にして歩き、音の濃い方へ、濃い方へと引かれていった。音は、濃度を持つ。濃い音は呼吸に触れる。呼吸に触れた音は、合図になる。
温室の扉は、開いていた。
開いていたと書くのが正確かどうか、今でも迷う。僅かにずれた隙間、風で押し戻された気配、内側に眠っている湿気の匂い。誰かが開けたままにしたのか、誰も閉められなかったのか。真実は、いつだって動詞の選び方に逃げ込む。
中は、白かった。
霧のような、蒸気のような白。呼気がすぐに肌に貼りつき、眼鏡を持たない私の視界でさえ曇るほどに。蛍光灯はまばらに灯っていて、光には湿り気があり、葉の縁を柔らかく滲ませていた。温室は、植物の肺で、人間はそこに外来の塵のように漂っていた。
白い蠅は、その白の中から生まれたように見えた。
蠅、と呼ぶのが適切かどうかは、専門家に譲る。羽は薄く、粉のようなものがかすかにまとわり、飛ぶというより、落ちては浮き、浮いては落ちる。黒ではなく、灰でもなく、濡れた紙の余白みたいに色を失っている。照り返しを吸い込む白。私はそれを、蠅と呼ぶ。私は、ものに名前を与えないと、触れた感じがしない。
温室の奥で、誰かが横たわっていた。
私は、その人の名をここに置かない。名は、場所の鍵になる。鍵は、扉を思い出させる。扉を思い出すと、人は開けたくなる。開ける衝動は、いつだって物語を壊す。だから、ここではただ、彼と呼ぶ。彼は、手袋を片方だけはめ、もう片方は胸の上に握りしめていた。掌の内側に何が隠れているのか、私は見ない。見ないという行為は、時に見るより強い。
死因は、わからない。
外傷はない。だが、顔は落ち着いていた。驚愕の広がりも、苦痛の歪みもない。ただ、長く息を吐ききって、戻し忘れたような顔。私は、死に顔の種類を、日記の余白に幾つか分類したことがある。分類とは、恐怖を折り畳んで引き出しにしまう、静かな手仕事だ。彼の顔は、そのどれにも似ていなかった。まるで、合図を受け取って、その通りに身体を動かし、終わりの姿勢を取っただけのように。
白い蠅は、彼の胸元に集まっていた。
集まる、と言っても、群がるわけではない。一匹、また一匹。間隔を空け、礼儀を守るように。あの白は、不思議な礼儀正しさを持っている。生き物が持つはずの、あのあつかましい飢えの輪郭がない。目的はあるが、飢えがない。目的は、合図に似る。私は、合図に弱い。
温室のレイアウトを、私はよく知っている。
通路の幅、鉢の配置、高さの違う棚、腰の位置にくる散水の蛇口。私は、誰に教えられたわけでもないのに、それらを言葉に置き換えられる。植物の名は曖昧なのに、距離や角度ははっきりしている。はっきりしているからこそ、嘘をついている気がする。私は、空間の嘘を好む。嘘は、真実よりも、形をはっきりと見せる。
その温室を世話していたのは、彼ひとりではなかった。
噂話は、雨の翌日に生まれる。濡れた服の乾かないうちに、人は口を動かす。彼には教え子がいた、と誰かが言った。彼には、取引相手がいた、と誰かが言った。彼には、恋人がいた、と誰かが囁いた。どれも、温室の湿度の中では、同じ重さだ。湿気は重さを均す。均された重さの上でだけ、秘密は軽い顔をする。
「約束は守った」と、誰かが言ったという。
誰が誰に。どの夜に。どの雨の音に合図されて。私は、その文を、温室のガラスに指でなぞってみた。曇った指先の跡が、文字のかたちをつくる。すぐに消える。消える文字こそ、約束に似ている。約束は、読まれる前に消えることを望む。読まれない約束だけが、守られたとき、誰も傷つかないふりができる。
白い蠅の出所について、誰かが尋ねた。
外から来たのか。内側で生まれたのか。
私は、どちらでもないと答えた……ような気がする。
正確には、私は答えなかった。答えなかったことを、答えとして差し出した。白は、色ではなく、欠落だ。欠落は、どこにでもある。どこにでもあるものの出所は、問えない。問うと、世界の端がほつれる。ほつれを引くと、構造が見える。構造は、犯罪に似る。犯罪は、構造に宿る。
彼は、植物に対して正直だった。
水をやり、剪定し、支柱を立て、余計なものを落とす。落とす手つきに、迷いはない。迷いのない人は、約束を嫌う。約束は、未来に迷いを置く行為だから。だから、彼は約束を結ばなかったか、結んだふりをしていた。ふりは、忠誠よりも、よく守られる。人は、ふりを守るために、真実を犠牲にする。
温室の片隅、未使用の鉢が積まれた棚の裏に、細いガラス瓶が立っていた。
栓は閉まっていない。開いている、でもない。押し込められた空気の層が、薄く抵抗し、ほんのわずかな匂いを吐き出している。私は、それを手に取り、戻した。手のひらは、触れたものの重さを忘れない。視界は忘れるが、手の皺は記憶する。瓶は、軽かった。軽いものは、重い意味を持ちたがる。
私がそこにいた時間は、雨の長さで測るのが一番近い。
時計は、湿気で遅れ、耳は、雨で満ち、足は、泥で重い。時間は、どれも外側のものだった。内側の時間は、白い蠅の羽ばたきで測れる。あの小さな起伏。音にならない音。羽ばたきと羽ばたきの間に、ひとの思考は溶ける。私は、考えることをやめた。やめたふりをして、考え続けた。
彼は、最後に何を見たのか。
天井の光か。葉の裏か。自分の指先か。あるいは、白い蠅か。
目は、最後にやさしいものを見つけようとする。やさしさは、死の直前にだけ、輪郭を持つ。もし彼が白い蠅を見たのだとしたら、あのやわらかな礼儀に、救いを見たのかもしれない。蠅は、誰にも責任を問わない。問わない生き物は、神に似ている。
温室を出ると、雨足は弱まっていた。
私は、掌を見た。掌には、粉のような白がひとつ、ついていた。いつ付いたのか、覚えていない。私は、掌をひらき、指先で息を送った。白い蠅は、ゆっくりと浮き、私の顔の目の前まで来て、そこで止まった。私がそこにいることを確認するように。私は、頷いた。白は、離れた。
街では、温室の話題で持ちきりだった。
人は、ぬかるみに足を取られないために、言葉で足場を作る。
「事故だった」
「病だった」
「誰かの悪意だった」
言葉の足場は、どれも滑る。滑りやすい順に、よく使われる。私は、誰の足場にも乗らなかった。乗るふりをして、別のところへ歩いた。
あの夜、誰かが私に訊いた。
「あなたは、何を見たの?」
私は、鏡を見たと答えた。鏡は、何も見せない。そこにあるものを返すだけだ。返されたものしか見ない人は、真実に触れない。私は、触れないことを選んだ。選ぶふりをして、選ばれた。
私は、罪を告白しない。
ここまで読んだあんたが、どの行を印として折ったか、私は知らない。
私は、曇ったガラスに指で書いた文字のように、すぐに消える印しか持たない。
「約束は守った」と誰かが言ったなら、それは真実かもしれないし、虚言かもしれない。守られた約束は、誰かを消す。破られた約束は、誰かを残す。残った誰かが、こうして書く。書かれた文字は、現実に似る。似ているだけだ。
白い蠅は、まだいる。
どこにでも、いる。
紙の余白に、コップの内側に、夜の電灯の周りに。
私は、時々、それを掌に受ける。受けたふりをして、掌を空にする。
空の掌は、罪に似る。何も持たず、何かを持った顔をしている。
私はここで筆を置く。
有栖川郁太郎という名は、現実には存在しない。
だが、雨は降る。温室は曇る。白い蠅は浮く。
合図は、いつでも、どこにでも落ちている。拾うかどうかは、私の問題ではない。
拾ったと書くかどうかだけが、私の仕事だ。