テラーノベル
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「麗香を待ち伏せだなんて……。嫌な思いさせちゃってごめんね。私が身勝手な行動したから……」
「亜紀は悪くない! 身勝手なのは旦那よっ!」
私の声を遮り、麗香はフンッと鼻を鳴らす。
「それより、しばらく家には帰らない方がいいわよ。あの男、何するか分からないから……ちょっ……そのアザ何よ!?」
流し台を照らす控えめな蛍光灯の光に照らされた私の顔を見て、麗香が愕然とした声を上げる。
ファンデーションで隠しても薄っすらと浮かび上がる、口元の青アザ。
無理に捩じ込まれ、乱暴にされた心と身体……。
「……遼に……」
悲痛な思いが胸を締め付け、怯えるように口を噤んだ。
私を見つめる麗香の表情が、みるみるうちに怒気に染まる。
「……あいつにやられたのね。そこまで最低な男だったなんて……なんて呆れた男っ!」
「麗香……」
「亜紀、すぐに家を出なさい。何ならうちに……あ、でも私の家だと押しかけてきそうだしな……」
憤慨を露わにした彼女は、口元を歪めて舌打ちする。
「私、今夜荷物を取りに帰って、しばらくビジネスホテルに泊まる。遼と話す前に、週末田舎に帰ろうと思うの」
「メールで書いてた、お兄さんのことね。荷物を取りに帰るのはいいけど、旦那に会ったらダメよ。また、何されるか分かんない……」
「分かってる。遼、今日は午後からオペなの。遼が帰宅する前に荷物まとめて出る。上手くやる。心配しないで」
私の身を案じ、不安げに目を細める親友に向かって、私は精一杯の笑顔を作った。
「……そう、分かった。午後のエコーと精検なら私が代わる。亜紀は自分の患者の仕事だけ終わったら帰りなよ。昨夜だってちゃんと眠れてないんでしょ?」
「……うん。時間は短いけど、明け方からぐっすり眠れたから。
……今泉さんがいてくれたから、安心できたんだと思う。あんなに深い眠りは久しぶり」
はにかんだ笑みを零し、声を潜めた。
「あらっ、そうなの?」
眉間に深い皺を刻んでいた麗香は、私の言葉を聞いて不意を突かれたような顔をする。
「そうか、それなら良かった。彼が亜紀の心の支えね。
……亜紀、だからこそ、関係がばれないように気をつけてね。旦那は亜紀の尾行だってやりかねないわよ。
彼だって、自分の身の危険は分かってるはず。それなのに、亜紀の側にいてくれようとしてる彼を守るのは、既婚者を愛した亜紀の責任よ。彼を大切に想うなら……分かるよね?」
麗香は慎重に言葉を続けたあと、語尾を和らげた。
「……うん。分かってる。彼には気持ちを伝えた。ちゃんと、自分でけじめをつけるって。彼を、逃げ場所にはしないって。
実家に行ってそれを報告したら、遼とのことが決着するまで、しばらく彼には会わないつもり……」
心臓を掴まれるような痛みを抑え込み、強がりで固めた言葉を置いていく。
「決着って……離婚できるまで?」
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「……うん」
「きっと、長期戦になるわよ」
覚悟を確かめるかのように、麗香は真っ直ぐ私を見つめる。
「……うん、分かってる」
悲しみに押しつぶされないように、声に力を込めた。
「よく、覚悟したわね……」
「だって、……もう無理。遼と一緒にはいられない……」
唇を噛み、震える声で言葉を落とした。
「違うわよ。一人になる覚悟。
亜紀が一人になっても、彼は亜紀のものにはならない……」
麗香は心苦しそうにそう言って、口を引き結ぶ。
私は無二の親友に視線を戻し、
「……うん。それも分かってる……」
涙の滲む目を細め、どうにもできない切なさを誤魔化すために、口元に偽りの笑みを貼り付けた。
***
――楓ちゃん……今日、出勤してるのかな……。
私は電子カルテのキーを打つ手を止め、彼女にどことなく雰囲気の似たナースへふと視線を向ける。
突然の別れを切り出された彼女が放った、狂乱にも似た悲痛な叫びが耳にこびり付き、頭の中で何度も繰り返される。
あんな状態で、普通に仕事なんてできないよね……。
出勤したら、どうやっても遼と顔を合わせなきゃいけないんだし……。
同じ職場で不倫をしたら、いつかはこんなことになるんじゃないかって、考えなかったの?
それとも、関係が壊れる日が来るなんて考えもしなかったの?
点滴の準備をするナースに彼女の姿を重ね合わせ、深いため息を落とした。
私の視線に気づいたのか、ナースは点滴のルートに薬剤を満たしながら、チラリと私を見た。
一瞬、ピタリと重なった視線。
私はハッとして、気まずさに慌てて視線を電子カルテへ戻した。
これが終わったら急いで帰ろう。荷物をまとめて、ホテルを探さないと……。
日没が近づくにつれて、人の声が慌ただしく行き交うナースステーション。
不快な動悸を抑え込もうとしながら、私はステーションの片隅でパソコンのキーを打ち続けていた。
――午後6時。
自分が受け持つ患者の処置や指示出しを終えた私は、急ぎ足で更衣室に向かっていた。
思ったよりICに時間かかっちゃった。早くしないと、遼が帰ってきちゃう!
荷物をまとめて出ていくのを知られたら、遼がそれを許すわけがない。
遼は、気づいている。
自分がどんな身勝手な振る舞いをしようとも、離婚など考えもしなかった従順な妻。
その妻が自分に対して蔑んだ目を向け、その場で迷いなく別れを口にした。
以前、今泉さんが言った言葉――。
『浮気など有り得ない献身的な妻が、実は他の男の腕の中で自分の知らない姿を露わにし、快感の声を上げている。……男にとって、こんな屈辱はない』
――だから、遼はあんなにも逆上したんだ。
私の中に、自分以外の男の存在を感じたから……。
遼は私の変化に気づいている。
遼は許さない。
他の男の手によって染められた私が離れることも、その男の存在も。
どんなことがあろうとも、絶対に許さない。
私はずっと変わりたかった……。
自分で自分を変えたかった。
結婚を女の終着駅だと思ってしまっていた自分。
振り返らない夫の背中だけを見ている不甲斐ない自分が、白衣を脱いだら何の自信もない、誇りもない自分が嫌だった。
この消毒臭い閉ざされた世界でしか、生きる意味を見いだせない自分が嫌だった。
――だから私は飛び込んだ。
夫への復讐を大義名分とした、女としての喜びが得られる世界に。
守らなければいけない。
暗闇から救い出してくれた、あの人を――。
一気に階段を駆け下り、足先が更衣室のある渡り廊下に差し掛かる。
風を切る白衣をひるがえし、焦る気持ちを抑えようと大きく息を吸った。――その時、
「亜紀ちゃん。み~つけたっ!」
視界に映り込む、直江先生の姿。
またあの人!?
こんな時に会うなんて……。
怪訝な表情を浮かべ、思わず舌打ちをする。
「亜紀ちゃん酷いな~。またそんな露骨に嫌な顔をして。別に亜紀ちゃんをストーキングしてたわけじゃないよ? ボク」
拗ねたように口を尖らせてそう言った声は、煩わしくも甘えた響きを含んでいる。
ストーキングしてたわけじゃない……?
今「み~つけた」って、言ったじゃないの。
どうでもいい。
この人に関わると、ろくなことがないんだから!
「……私、急いでますから。お疲れさまでした」
素っ気なくそう言い、目の前にいる彼を避けるようにして、スタスタと横を通り過ぎた。
「例の彼女、今日は無断欠勤したみたいだよ」
すれ違う瞬間、耳に入り込んだ声。
無断欠勤って……。
楓ちゃんが?
「……」
私は大きく目を見開き、強張った顔を彼に向けた。
「連絡もつかないって、オペ室のスタッフたちが騒いでた」
「……」
「あんな真面目な娘が無断欠勤して、さらには行方不明だって。どうしちゃったんだろうねぇ、楓ちゃん。
亜紀さん、何か心当たりある?」
直江先生は意味ありげにニヤリと笑い、私の瞳の奥を覗き込む。
無断欠勤? 行方不明って……。
一瞬、血の気が引くのを感じ、心臓が得体の知れない不快な音を立て始める。
「……そんなの、私が知ってるはずがないでしょ!」
白を切ろうとする口元が、無意識に歪む。
「へぇ、そうなんだ。てっきり、あのDVDが早くも活躍できたのかと思って喜んでたのに。残念だなぁ」
彼は私の顔を見つめたあと、発した言葉とは相反する愉悦の笑みを浮かべ、目を細めた。
彼の言葉と視線が私の不安を煽り、額に嫌な汗が滲む。
言葉の出ない私は口を噤み、逃げるように視線を逸らした。
「……じゃあ、また明日ね。亜紀さん」
「……さようなら」
彼が向ける煩わしい笑顔を振り払い、素っ気なく返事をして、再び更衣室の扉に手を伸ばす。
「……これからだよ。きっと、まだ序章にすぎないよ」
その場に吐き捨てられた、不吉な言葉。
えっ……。
まだ序章にすぎない?
……それって……楓ちゃんのこと?
一瞬にして体が凍りつく。
蒼ざめた顔を後方へ向けると、立ち去る彼は二度と振り返ることなく、白衣を纏ったその背中は階段へと続く深い暗闇に消えていった。
コメント
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うわ、第121話……亜紀さんの決意が固まった回って感じだね。麗香とのやり取りに出てくる「一人になる覚悟」って台詞がすごく刺さった。今泉さんを逃げ場所にしないって決めた亜紀さんの強がり、読んでて胸が締め付けられるよ。それにしても直江先生、このタイミングで楓ちゃんの無断欠勤をチラつかせてくるのか……「まだ序章」って不穏すぎるわ。亜紀さんが無事に家を出られますようにって祈りながら読んだ🔥