テラーノベル
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自宅マンションに着くと、約五日分の着替え、愛用しているメイク・コスメ用品など、ホテルには置かれていない最低限の荷物をキャリーバッグに詰め込んだ。
シンと静まり返った室内には、クローゼットや棚を開け閉めする音と、夜逃げでもするかのような私の落ち着きのない足音が響き渡る。
楓ちゃん……今どこにいるの?
……行方不明って、実家にも連絡したけど分からないってこと?
夫がいつ帰宅するか分からない恐怖心に煽られながらも、荷造りをする私の頭の中を巡るのは、彼女の行方。
冷酷な言葉で一方的に彼女を突き放した、酷薄な夫。
――嫌な胸騒ぎがする。
自暴自棄になって、まさか――変なこと考えたりしないよね?
けたたましく打ち鳴らされる胸の鼓動に、息が詰まりそうになる。
……ダメっ。今は彼女のことを気に掛けてる場合じゃない。
とにかく早くここを出て、考えるのはそれからにしよう!
ぎゅうぎゅう詰めにしたキャリーバッグを玄関に置き、危うく消し忘れそうになった最後の照明を落とそうと、リビングに引き返した。
照明のスイッチに指を置き、ふとダイニングテーブルへ視線を向ける。
テーブルの上にあるのは、底に冷めた珈琲が残された、夫のお気に入りの珈琲カップ。
それは結婚した当初、お互いに忙しい中で時間を作り、日帰りで訪れた京都で二人一緒に購入したものだ。
「遼……」
間違いなく、愛を感じ合えた時間はあったのに……。
二人で重ねてきた時間が、走馬灯のように蘇る。
「……」
大きく息を吸い込み、込み上げてくる感情を押し殺そうと、カップから目を逸らした。
再び照明のスイッチに視線を戻し、それを押そうとした瞬間。
……ピンポーン……ピンポーン……。
インターホンの音が二回、静寂に包まれた室内に鳴り響いた。
普段より大きく聞こえるその音に驚き、私はビクッと肩を跳ね上げる。
誰!?
……まさか、
遼じゃないよね……。インターホンを鳴らして帰宅するはずないし……。
顔を強張らせ、恐る恐るモニター画面を覗き込む。
凝視する画面に映し出されているのは、女性と思われる頭頂部。
……ピンポーン……ピンポーン……。
急かすように、再び音が鳴る。
「誰? ……背の低い女の人……」
訝しげに目を細めて息を飲んだその瞬間、その人物が顔を上げた。
心臓が止まる寸前に悲鳴を上げるように、ドクッと激しい拍動を打った。
「……かっ、楓ちゃん?!」
モニターに映る人物が誰なのかを脳がはっきりと認識した瞬間、私は驚愕の声を上げ、後ずさりした。
今このマンションの1階に楓がいるという、信じがたい事実。
どうして!?
なぜ、楓ちゃんがここにいるの!?
何しにここへ……?
画面を凝視したまま言葉を失い、ただその場に立ち竦む。
まるで在宅を確信しているかのように、鳴り続けるインターホン。
「……」
私はゴクリと生唾を飲み込み、震える指で『通話』と書かれたスイッチを押した。
小さな穴から聞こえてくる、外気の音。
「……はい」
私は顔を引き攣らせ、外気に掻き消されてしまいそうな小さな声を漏らした。
「こんばんは。浅倉です。突然お邪魔してすみません。どうしても亜紀先生にお伝えしたいことがあったので……今、お時間大丈夫ですか?」
彼女はそう言って、不気味なほどに屈託のない笑顔を浮かべた。
どうしても私に伝えたいこと?!
……遼のこと?
でも、どうしてそんなふうに笑っていられるの!?
この子はいったい、何を考えているの?
思わず口を押さえ、違和感に満ちたその笑顔をまじまじと見つめる。
まさか、関係が私にばれてるってことを知らないの?
……あの時、遼は『亜紀はここにいる』と言った。
だったら、気づいたはずでしょ?
それとも、何も聞かされずに別れを切り出されたから……まさか、理由に気づいてないの?
彼女が何を考えているにせよ、このまま帰すのはあまりにも不自然。
「……ええ、少しだけなら」
私は静かにそう答え、オートロックを解除した。
私に話したいことって……。
もしかして、遼と別れてくれと私に頼みに来たとか!?
インターホンの接続を切り、焦る気持ちで壁に掛かる時計に視線を飛ばす。
――7時35分……。
もうオペは終わってるの?
遼は、もう病院を出たのかな……。
オペが順調に終わっていれば、いつもなら8時過ぎには帰宅する。
とにかく、時間がない!
話の内容によっては、いっそのこと外で話そうか……。
でも、キャリーバッグを持って出かけるなんて、彼女にどう思われるか……。
浮気が私にばれたって、知ってるの?
知らないの?
どっちなのっ!
予想もしていなかった事態に困惑する。
玄関に置き去りにしていたキャリーバッグをバスルームに押し込み、慌てて扉を閉めた。
扉が閉まる音と重なるように、再びインターホンの音が廊下に響き渡った。
来たっ……。
私は込み上げる生唾をゴクンと飲み込み、玄関の扉をジッと見つめた。
胸に置いた手のひらでコートを掴み、気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をする。
そして、気味の悪い緊張感で乾ききった喉に唾液を落とし、玄関の扉を開けた。
ゆっくりと開く隙間から姿を現す、グレンチェックのウールコート。
「こんばんは、亜紀先生。約束通り、お祝い持ってきましたよ」
私の目の前に現れた彼女はそう言って、赤いリボンが巻き付けられたシャンパンを差し出し、満面の笑顔を浮かべている。
普段と変わらない口調。普段と何も変わらない、屈託のない笑顔。
彼女の表情を見た瞬間、得体の知れない恐怖を感じて背中がゾクッとした。
「……いらっしゃい。……お祝いって?」
必死に笑顔を作ろうとするが、彼女の姿を見て口元が歪む。
自分に向けて突き出されたシャンパンを凝視し、不本意ながら彼女を玄関の中まで招き入れる。
「この前話してたでしょ? 亜紀先生の論文のお祝いですよ。亜紀先生が言ったんですよ? うちに遊びにおいでって。もう忘れちゃったんですか?」
「それは……確かに言ったけど、急に来るなんて……。それに、今から出掛ける用事があって時間がないの。お祝いは、また今度に……」
――しよう。そう言い掛けたその時、
「今度じゃ駄目なんです。お祝いは、今日じゃないと。だって、私も亜紀先生に祝って貰いたいんです」
そう言って、彼女は「ふふっ」と甘えた口調で目を細めた。
管野アリオ
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桃下結衣
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瑠璃マリコ
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コメント
1件
わあ、めちゃくちゃ緊張感のある回でしたね……! 楓ちゃんが突然訪ねてきて、しかも屈託のない笑顔でシャンパン差し出すシーン、背筋がゾッとしました。主人公の「時間がない」「夫が帰ってくるかも」という焦りと、楓ちゃんの真意が読めない不気味さが絶妙に重なって、ページをめくる手が止まらなかったです。続きが気になって仕方ない……!