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#恋愛
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開店準備は、忙しいのにどこか幸福だった。ルナ・マグだった頃の面影を残しつつ、夜更けの客が入りやすいよう動線を引き直す。ダービーは床に紙を貼って、テーブルからカウンターまでの歩幅を何度も確かめた。フレアは窓辺の古いカーテンをほどき、新しい布を足して、夜の海に似合う柔らかな色へ仕立て直していく。
ラウールは宣伝用の文句を考えていたが、声に出して読むたびにどこかで噛んだ。
「ね、眠気とやさしさを……あ、違う、やさしさと眠気を……」
「眠気が先でいいんじゃない」
ディアビレが笑うと、ラウールは真顔でうなずいた。
「それだ。眠い人は順番に厳しい」
意味が合っているのか微妙なところで、ゲティが肩をかばいながら笑う。
ベジラは多くを話さなかった。けれど誰より早く来て、無言で椅子を磨き始めた。見栄えのする役ばかり選んできた従妹が、今は磨き布を何度も替えながら脚の細い部分まで丹念に拭いている。
ディアビレはしばらく迷ってから、その隣へ新しい布を置いた。
「それ、こっちの方が艶が出る」
ベジラは顔を上げ、短く「……ありがと」と言った。たったそれだけなのに、前よりずっと届く声だった。
夕方が沈みかけた頃、ディアビレはカウンター奥の壁へ一枚の写真を掛けた。母の写真だ。これまで部屋にも飾れなかったものを、今度は店の真ん中に置く。
写真の中で、母は海を背に笑っている。強がっていない、働く人の顔だった。
ジナウタスが脚立を押さえながら尋ねる。
「ようやく出したな」
「見ていてほしいから」
「誰を」
ディアビレは少し考えてから答えた。
「私たちを」
脚立を降りると、店の空気がわずかに変わっていた。写真一枚で何もかも解決するわけではない。けれど、ここが奪われた場所の延長ではなく、取り戻した場所になった気がする。
外はもう、静かな夜の手前まで来ていた。開店の日は近い。
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