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#読み切り
紫道
立秋 芽々(りしゅう めめ)
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第9話 おばあちゃんの告白
朝から空は静かだった。
静かすぎる、
と言っていいくらいだった。
第八話の夜に増えすぎた星は、
もう引いている。
昼のひかりも、畑の葉へいつもの角度で落ちてくる。
山の線も、遠くのまま沈んでいる。
でも、
静かになったぶんだけ、
昨夜のことが消えずに残っていた。
ミュオは畑の端で、
じっと土へ触れていた。
灰色の羽毛へ朝のひかり。
首もとの紫は、
今日は少しだけ深い。
土の中には、
おばあちゃんの手の温度がある。
水の跡もある。
欠片の乾いたひかりも、まだある。
そこへ、
昨夜のことばの残りまで、
うっすら沈んでいる気がした。
空へ届いた句。
夜の並びを揺らした句。
帰る、と形だけで押してきたものへ、
押し返した句。
触れたものが大きすぎて、
ミュオはまだ胸の奥をうまく片づけられずにいた。
おばあちゃんは、
少し離れたところで葉を見ていた。
小柄な背すじ。
茶色のもんぺ。
土のついた指。
いつもの見た目。
でも、
そのいつもの中に、
今日はいつもより深い静けさがある。
ミュオは顔を上げた。
「おばあちゃん」
呼ぶと、
おばあちゃんは振り向いた。
「どうしたんだい」
ミュオは、
土へ置いた手を見つめたまま言う。
「ことば
のこる」
おばあちゃんの目じりが、
わずかに動く。
「うん」
それだけだった。
でも、
そのうん、は、
軽い返事ではなかった。
知っている者のうん、だった。
ミュオはさらに言う。
「きのう
いったの
まだ ある」
おばあちゃんは少し黙ってから、
畑の畝へしゃがみこんだ。
土をひとつまみ持ち上げる。
指のしわへ、
やわらかく粒が残る。
「あるねえ」
その言い方に、
ミュオは顔を上げた。
おばあちゃんは土を見ている。
でも、
見ているのは今の土だけではない顔だった。
「言ったものは、残るよ」
風が畑を渡る。
若い葉が少し返る。
どこかで桶のぶつかる音がした。
おばあちゃんは、
土を畝へ戻した。
「残ってほしくないものも残るし、
残ってほしいものも、ちゃんと残る」
ミュオは動かなかった。
そのことばの続きがあると分かったからだ。
おばあちゃんは立ち上がり、
縁側のほうへ歩き出す。
「昼の前に、ちょっと休もうか」
声はいつも通りだ。
けれど、
その奥に、
今日は話すつもりの人の重さがある。
縁側へ並んで座る。
茶色の板は、
朝のぬくもりを少しだけ持っている。
家の中からは、
まだ炊きたての米の匂いがうっすら流れてくる。
おばあちゃんは湯のみを二つ置いた。
自分のほうの湯気を見つめ、
しばらく飲まない。
ミュオも待つ。
急かさない時間の流れ方を、
ここへ来てから少し覚えた。
おばあちゃんが、
やがて口をひらく。
「じいさんね」
その音だけで、
空気が少し変わる。
悲しい、とはちがう。
もっと長く持ち歩いて、
ようやく手の中で丸くなったものを出す時の空気。
おばあちゃんは、
縁側の先の畑を見る。
「よくしゃべる人じゃなかったんだよ」
ミュオは小さく首を傾ける。
「でも、
言う時は短かった」
おばあちゃんは笑う。
笑うけれど、
目じりのしわは少しだけ静かだ。
「短いのに、変に残るんだよ」
ミュオの胸が小さく鳴る。
短いのに、残る。
それは、
五七五に少し似ていた。
おばあちゃんは膝へ手をのせた。
指先に、まだ朝の土が残っている。
「朝、出る時にね」
そこでいったん止まる。
風が縁側を抜ける。
おばあちゃんの短くまとめた髪の端が、
少しだけ揺れる。
「行ってくる、って言うだろう」
ミュオはうなずく。
「私は、うん、って返してた」
また少し笑う。
「うちはそんなもんだったよ。今さら、気をつけてだの何だの、毎朝大きくは言わない」
その言い方の中に、
長く一緒に暮らした者どうしの呼吸があった。
大きく言わなくても分かる。
言い切らなくても伝わる。
毎日くり返すうちに、
ことばは細くなって、
でも切れなくなる。
おばあちゃんは、
湯のみを持ち上げる。
ひと口飲む。
そして続ける。
「でもね、いなくなる少し前だったかな」
ミュオは息をひそめる。
「畑へ出る前に、
ふいに振り返ってね」
おばあちゃんの目は、
もう縁側ではなく、
その日を見ていた。
朝の戸口。
まだ若い歩幅。
茶の前かけ。
日が高くなる前の畑の匂い。
そこへ、
じいさんがいる。
肩のしっかりした体。
汗の乾いた跡のついた首。
髪を手の甲で払う癖。
土の入りこんだ太い指。
おばあちゃんの声で、
その見た目が縁側へ立ち上がってくる。
「今日は、風がいいな
って言ったんだよ」
ミュオはまばたきした。
それだけ。
でも、
それだけだからこそ、
その朝の空気ごと残る言い方だった。
おばあちゃんは、
指で湯のみのふちをなぞる。
「それで私は、
そうだねえ、って返した」
短い。
けれど、
その短い往復のあいだに、
朝の風があり、
戸口の明るさがあり、
ふたりの暮らしがまるごと入っている。
「その日の風、今も覚えてる」
おばあちゃんは笑わない。
でも、
泣きもしない。
覚えている人の顔で、
そのまま前を見る。
ミュオは、
胸の中へ何か重いものが沈むのを感じた。
痛い、
とも少しちがう。
言われたことばが、
景色まで一緒に残ってしまう重さ。
おばあちゃんは続ける。
「あとね」
今度は、
目じりへほんの少しだけ、
やわらかいしわが戻る。
「私が畑で転んだ時にね」
ミュオが顔を上げる。
おばあちゃんは自分の膝を軽くたたいた。
「若いころさ。今より足も速かったくせに、変な石につまずいて」
その言い方に、
ミュオの羽先が少しゆるむ。
おばあちゃんは苦く笑う。
「その時、じいさんが来て、
起こしながら言ったんだよ」
また少し間がある。
「土にまで急ぐな」
ミュオはそのことばを、
胸の中でゆっくり繰り返した。
土にまで急ぐな。
叱るようでもあり、
笑うようでもあり、
心配するようでもある。
たったそれだけで、
その時の手の強さや、
転んだ膝の痛さや、
起こされたあとの気まずさまで浮く。
おばあちゃんが、
ふっと息をつく。
「もうね、そういうのが残るんだよ」
残る。
ただ耳に残るのではない。
畑の土みたいに、
手を入れるとまだそこにある残り方。
ミュオは、
自分の羽先を見つめた。
自分の詩も、
残るのだろうか。
星を増やしたこと。
太陽のひかりを変えたこと。
畑の芽の向きを動かしたこと。
夜の配置を揺らしたこと。
それだけではない。
その時に置いたことばごと、
どこかに残っていくのだろうか。
おばあちゃんは、
今度は少しだけ首を下げた。
「いなくなる少し前のね」
その声で、
縁側の空気がまた静かになる。
「昼に、横になってた時」
家の中から、
柱のきしむ小さな音がした。
「もう、ああ、これは長くないかもしれないって、
分かるような顔してた」
おばあちゃんは湯のみを置く。
音が小さく鳴る。
「それでも、
お腹すいたって言うんだよ」
そのひと言に、
おばあちゃんの口もとが少しだけ笑う。
「だから私は、おかゆ作って、
熱いよって出した」
ミュオは、
その部屋の匂いを思い描く。
煮えた米の匂い。
昼の光。
横になった人の熱。
戸の外には畑。
おばあちゃんは、
その時のじいさんの声をなぞるみたいに、
少し低く言った。
「うまいな」
短い。
それだけ。
でも、
その二音のあいだに、
生きている者の体温がある。
おばあちゃんは目を伏せる。
「それがね、最後に近いちゃんとしたことばだった」
ミュオは、
胸の奥がずしりとするのを感じた。
うまいな。
そんな短いことばが、
最後に近いものとして、
何年も、
何十年も残る。
言葉は残る、
という意味が、
いままでより急に重くなる。
おばあちゃんは、
その重さをもう何年も持っていたのだ。
毎朝の畑で。
鍋の火の前で。
ひとりで食べる晩の汁の中で。
おばあちゃんは、
縁側の向こうの畑を見る。
「大きなことばじゃないんだよねえ」
その言い方は、
諦めではなかった。
ちゃんと分かったうえで言う声だった。
「立派なこと言われたわけじゃない。
忘れられない約束をしたわけでもない」
指先で、
縁側の板を撫でる。
「でも、残る」
ミュオは、
その板の感触まで、
いっしょに残る気がした。
おばあちゃんがふいにミュオを見る。
「ミュオの詩も、そうなんだろうね」
灰色の羽毛へ、
昼前のひかりがやわらかく乗る。
水色寄りの目が、
少しだけ揺れる。
「空が変わるのも、
畑が変わるのもあるけど」
おばあちゃんは少し笑う。
「それだけじゃないんだろう」
ミュオは、
その時はじめて、
自分がいままで見ていたものの順番を、
少しちがえていたことに気づく。
星が増える。
ひかりが変わる。
芽が向く。
それが前だと思っていた。
でも、
ほんとうに残るのは、
置いたことばのほうかもしれない。
そのことばが、
空の並びより長く、
土の甘さより深く、
誰かの中へ残ってしまう。
ミュオは小さく言う。
「こわい」
おばあちゃんは、すぐうなずく。
「うん」
否定しない。
「こわいね」
それから、
少しだけ笑う。
「でも、だからだろうね」
ミュオは首をかしげる。
おばあちゃんは、
畑の向こうへ目をやる。
「短くても、ちゃんと置かなきゃならない」
そのひと言が、
第八話の夜に知った大きさとは別の重さで、
ミュオの中へ入った。
宇宙に届くこと。
空へ干渉してしまうこと。
それも重い。
でも今、
それとはちがう重さが、
胸のもっと近くへ来ている。
残るから、
置き方を間違えられない。
昼すぎ、
おばあちゃんは納屋の奥から、
古い木箱を持ってきた。
ふたの角がすり減っている。
長く使われた色をしている。
縁側へ置いて、
静かに開ける。
中には、
古い手ぬぐいと、
種袋と、
小さな帳面が入っていた。
おばあちゃんは帳面を取る。
「字は上手くないんだけどねえ」
笑いながら開く。
中の文字は、
大きかったり小さかったりする。
急いだ日もあれば、
ゆっくり書いた日もあったのだろう。
日付の横に、
短いことばが並んでいる。
風つよい
土かわく
きゅうり三本
今日は甘い
背中いたい
よく眠る
おばあちゃんは指でそこをなぞる。
「これ、じいさん」
ミュオは近づく。
帳面の紙から、
古い家の匂いがする。
引き出しの奥に長くいた紙の匂い。
でも、
その字の並びには、
ちゃんと日々の熱が残っている。
「こんなのでもね」
おばあちゃんは、
次の頁をめくる。
そこに、
少し大きめの字で、
ひとつだけ書いてあった。
風がいい
それだけ。
おばあちゃんは、
その頁を見てしばらく黙る。
「書いてあったんだよ。
あの日の朝」
ミュオは、
帳面を見つめたまま動けなかった。
口から言ったことば。
紙に書いたことば。
どちらも残る。
声だけでは消えると思っていたものが、
土にも、紙にも、人にも残る。
おばあちゃんは、
帳面を閉じずに、
縁側へ置いたまま言う。
「だから、ミュオ」
その呼び方は、
今日いちばん静かだった。
「うまくなくていいよ」
ミュオが顔を上げる。
おばあちゃんの目じりには、
深いしわがある。
でも、
そのしわの奥はまっすぐだ。
「きれいじゃなくてもいい。
大きくなくてもいい」
細い指で、
帳面の頁を軽く押さえる。
「残るものを、
ちゃんと残しな」
風が吹いた。
帳面の端が少しだけめくれかけて、
おばあちゃんの指がそれを止める。
その動きまで、
ミュオにはひどく大事に見えた。
夕方、
畑へ出る。
昼の熱が少し落ちて、
葉の影が長くなる。
ミュオは、
欠片の混じる畝の前でしゃがんだ。
灰色の羽毛へ夕方の色。
首もとの紫は、
日が傾くと少しやわらかく見える。
土へ手を入れる。
おばあちゃんの手。
じいさんの帳面。
風がいい、という短いことば。
うまいな、という最後に近いことば。
その全部が、
いまの土の温度と重なる。
ミュオは、
はじめて、
星を増やすためでもなく、
ひかりを変えるためでもなく、
誰かに見せるためでもなく、
残すためにことばを探した。
五。
七。
五。
数はいつもと同じなのに、
並び方がちがう。
軽い音を先に置かない。
胸の奥でいちばん長く残っているものから、
そっと持ち上げる。
そして、言う。
「みじかくて
きえない ことばが
つちに なる」
言い終わる。
空は変わらない。
畑も、大きくは動かない。
でも、
土へ置いた指先の下で、
あたたかさがゆっくり広がった。
見える変化ではない。
けれど、
今まででいちばん深く沈む感じだった。
ミュオは、
その沈み方に、
少しだけ泣きそうな気持ちになった。
詩の意味が、
また変わったからだ。
変えるためだけのものではない。
残すもの。
残ってしまうもの。
だからこそ、
置く前に、
胸の中で少し持たなければならないもの。
縁側へ戻ると、
おばあちゃんが帳面をしまっていた。
木箱の中へ、
種袋といっしょに、
そっと戻している。
ミュオはその手元を見て、
小さく言った。
「ことば
たねみたい」
おばあちゃんが顔を上げる。
それから、
目じりのしわを深くして笑った。
「そうだねえ」
木箱のふたを閉める。
「まいてすぐ芽が出るのもあるし、
何年もあとに効くのもある」
その言い方に、
ミュオの胸がまた少し重くなる。
でも、
もうこわいだけではなかった。
夜、
縁側に並んで空を見る。
星は静かだった。
第八話の夜みたいに押してこない。
ただ、
遠くでそれぞれの場所へいる。
ミュオは、
増えた星のひとつを見つめる。
あの星も、
いつかことばの残りとして見える日が来るのだろうか。
おばあちゃんは、
湯のみを両手で包みながら言う。
「じいさんのことばはね、
今でも畑でたまに聞こえるよ」
ミュオは目を丸くする。
おばあちゃんは笑う。
「耳でじゃないよ」
そう言って、
胸を軽く叩く。
「ここでね」
ミュオも、
自分の胸へ手を置いた。
そこには、
今までに読んだ句が少しずつ残っている。
土のした
つちの したにも
みせるため
かるいこえ
みじかくて
きっと、
これからも消えきらない。
それがうれしくて、
少しこわい。
その両方を抱えたまま、
ミュオは星を見上げる。
今夜の空は、
黙っていた。
でも、黙っていることもまた、
残るのだと分かる静けさだった。