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その夜、花屋の裏口には、いつもの夜食より少し重たい空気が置かれていた。石段の下の惣菜店で買ったコロッケ、アンネロスの切れ端クッキー、澄江が淹れた薄いほうじ茶。並んでいる物は変わらないのに、誰も手を伸ばす速度が遅い。
カウンターの上には、白群リゾートのファイルが開かれていた。
オブラスは眼鏡を押し上げ、契約書の該当箇所へ細い指を置く。
「ここです」
「どこ」
ノイシュタットが身を乗り出す。
「営業方針、販売価格、取扱商品構成、広報素材の決定権。全部、本部承認です」
「つまり」
「残るのは屋号と外見だけです」
紙の上の文字は丁寧だった。“地域文化の継承”“既存資源の活用”“安定運営支援”。どれも悪い言葉ではない。悪い言葉ではないのに、読み進めるほど、花屋の中身が抜かれていく。
オブラスは淡々と続けた。
「仕入れは集中管理。品目は季節別の推奨一覧から選択。特別注文は本部ルールに従う。店名は使えますが、経営判断はできません」
「それ、花屋の皮をかぶった別の何かじゃないか」
ノイシュタットが珍しく真っすぐ言った。
ハヤは黙って紙を見ていた。
頭では分かる。分かるのに、胸のどこかで、別の声も聞こえる。
――でも、楽になりそうだ。
値段で迷わなくていい。売上で胃を痛めなくていい。祭りを続けるために人前に出なくていい。名前を覚えられなくても、誰かの暮らしに花を合わせなくても、本部の決めた色で、決めた形で、店を開ければいい。
オブラスがハヤを見る。
「楽にはなります」
図星だったのか、ハヤの肩がかすかに揺れた。
「でも、それは残るとは違う」
沈黙が落ちる。
エフチキアが小さくクッキーをかじった。ぱき、と軽い音がして、その音だけが変に大きく聞こえた。
「ハヤさん」
オブラスの声は相変わらず低い。
「迷うのは普通です。赤字の店に、安定の話を持って来られたら、誰でも揺れます」
「……はい」
「でも、これは“残す”契約ではありません」
「分かってます」
「分かっていて、なお楽に見えるなら、それは疲れているからです」
ハヤは唇を結んだ。
疲れている。そう言われると、急に認めたくなくなる。けれど、否定する元気もなかった。
ノイシュタットが、いつもより少し静かな声で言う。
「君が弱いから揺れたんじゃない。ああいう書類は、人が揺れるように作ってある」
「慰めになってません」
「慰めじゃない。嫌味の少ない事実だ」
アンネロスがため息をつく。
「今のはぎりぎり褒め言葉に入らないわね」
小さな笑いが起きた。それもすぐ静まった。
それでも、ハヤの胸のつかえは動かなかった。
ファイルを閉じると、紙の端が掌へ固く当たる。
「ちょっと、外の空気吸ってきます」
誰も止めなかった。
夜の朝風通りは、昼間の石畳が持っていた熱をすでに手放し、坂の途中に秋の気配をためていた。ハヤはファイルを抱えたまま、通りを上がる。神社ではない。家でもない。足は自然に、商店街の裏手へ向いていた。
閉鎖保管庫の前で立ち止まる。古い鍵穴に、拾ったM-27がすんなり入った。回す音はもう怖くないはずなのに、今夜はやけに乾いて聞こえる。
扉を開けると、紙と木と埃の匂いが迎えた。
ハヤは白群のファイルを棚の上へ置いた。整った資料の横で、二十年前のポスターが少し歪んで立っている。きれいにまとめられた未来と、不格好でも人の手が残った過去。その差が、暗い保管庫の中でやけにはっきり見えた。
楽になりたい。
でも、あそこで楽を選んだら、何を手放すのか。
答えはまだ出ない。
ただ、ここで一人で考えたくなったということだけが、さっきよりは本音に近かった。