テラーノベル
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保管庫の裸電球をつけると、棚の影が長く床へ落ちた。古い回遊地図、司会台本、会場配置図、売上表。ハヤは白群のファイルを閉じたまま脇へ寄せ、代わりに、二十年前の紙束を一つずつ引っぱり出した。
誰かの字で埋まった余白を見ると、不思議と息がしやすくなる。整いすぎた提案書より、消しかけの鉛筆や書き直しの跡があるほうが、人の体温が残って見えた。
棚の最下段に、薄茶色の封筒が挟まっていた。表には何も書かれていない。開けると、中から折り目だらけの企画メモが出てくる。紙の上端には小さく日付があった。二十年前の九月。
ハヤはしゃがみ込んだまま、それを広げる。
《動線の快適さは必要。ただし、快適さだけでは人は残らない》
《均一化すると迷わない。でも、迷わない町は思い出しにくい》
《やわらかな檻ほど、自分から入って、自分では出にくい》
最後の一行だけ、筆圧が強かった。紙の裏にまで跡がついている。
ハヤはその文字を、指でなぞるように見つめた。
やわらかな檻。
今日、白群の担当者が微笑みながら言っていたことに、そっくりだった。安全で、きれいで、迷わなくて済む場所。入る時には助かる気がする。けれど、一度入ったら、自分で出る理由が薄くなる。
その言葉が、町の再開発だけを指している気がしなかった。
自分のことでもある。
名前を言わない。表に出ない。目立たない。期待されなければ、失敗しても傷は浅い。そうやって、無名のまま働く位置に、自分で静かに入ってきた。狭くはない。痛くもない。むしろ都合がよかった。
でも、それも檻だったのかもしれない。
「……嫌だ」
口に出すと、保管庫の壁が小さく返す。
何が嫌なのか、すぐには言えない。
檻に入っていたことを認めるのが嫌なのか。
そこが思ったより居心地よかったと気づくのが嫌なのか。
足音がして、ハヤは振り向いた。
ジョンナが紙袋を抱えて立っている。図書室帰りらしく、肩から斜めに本の重みがかかっていた。
「ここにいると思った」
「どうして」
「逃げる方向がいつも同じだから」
嫌味にも聞こえるのに、ジョンナの声は静かだった。紙袋から乾電池と小さな懐中電灯を出して棚へ置く。
「澄江さんが、保管庫の電球は切れやすいからって」
「ありがとうございます」
ジョンナは床に広げられたメモへ目を落とし、すぐ文字を読む。
「真柄蒼司の字だと思う」
「分かるんですか」
「前に見つかった避難導線の走り書きと癖が同じ。最後の払いが強い」
ジョンナはしゃがみ込み、最後の一行を見た。
「やわらかな檻、か」
「再開発の説明でも、似た言い方をされました」
「そう」
ジョンナはすぐには意見を言わなかった。代わりに、棚の埃を指でなぞり、少し考えてから口を開く。
「檻って、嫌なものだけで出来てるとは限らない」
「……はい」
「優しい言葉とか、安定とか、失敗しなくて済む仕組みとか。そういうもので作られると、人は自分で入ったことに気づきにくい」
ハヤは笑えなかった。まるで、胸の中を整理されたみたいだったからだ。
「でも」
ジョンナは続ける。
「気づいた人は、まだ出られる」
「簡単じゃないです」
「簡単なら、檻って呼ばない」
保管庫の天井で、裸電球がじっと鳴った。
ハヤはもう一度、紙の最後の一行を見る。
自分から入って、自分では出にくい。
その通りだ。だからこそ、今ここで、気づいたことまでなかったことにはできない。
ジョンナが立ち上がった。
「祭りの次の試験開催、告白実況中継を本当にやるらしい」
「……やるんですか」
「止めたけど、ノイシュタットが“品の悪さも時には回遊を生む”と言い張った」
「最悪ですね」
「うん。だから見てないと、もっと最悪になる」
ハヤの口元がわずかにゆるむ。
ジョンナは扉のところで振り返った。
「出るかどうかは、今すぐ決めなくていい」
「はい」
「でも、入っていることだけは忘れないで」
扉が閉まる。保管庫には、また一人分の静けさが戻った。
ハヤはメモを丁寧に折り、胸の前で一度押さえた。
忘れない。
その小さな約束だけを持って、彼女は立ち上がった。
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