「ちょ、ちょっと待ってよ! あの部屋の物がないと暮らしていけないわ! 引っ越し先が見つかるまではいさせてよ!」
「ハァッ? お前が別れたいって言ったんだから、つべこべ言わずに鍵を出せっ!」
「ひどいっ、そんな急に……」
「急なのはお前の方じゃないかっ!」
男性は怒鳴りながら、鍵を催促するように手をひらひらと振る。
それはまるで女性を挑発するかのようだった。
男の様子を見て頭にきたのだろう。
気の強そうな女は声を荒げて言った。
「わかったわよっ! 返せばいいんでしょう、返せばっ!」
女は小さなブランドバッグから鍵を取り出すと、投げつけるように机の上に放り投げた。
その瞬間、ガチャッという金属音が響く。
「フンッ、お前はどうしようもないあばずれだな! そんなんじゃ誰からも可愛がってもらえないぞ! 俺と別れた事を後悔し
ても知らないからな!」
男は鍵をポケットにしまいながら言うと、続けた。
「金は明日中に振り込めよっ! まったく可愛げのない女なんか愛人にするもんじゃないな! この恩知らずめっ!」
男性は吐き捨てるように言うと、会計伝票を持ってレジへと向かった。
そこで慌てて卓也がレジへ向かう。
周りにいた客は、息をひそめて騒動の一部始終を見守っていた。
「ありがとうございました」
レジ音と卓也の声で、男性が店を出た事が分かった。
その瞬間、凍り付いたような空気に包まれていた店内が、いつも通りの雰囲気を取り戻し始める。
それと同時に、女はピンと伸ばしていた背筋の力を抜いた。
そしてホッと一息つくと、まだ口をつけていなかったモスコミュールをグイッと一気に飲み干した。
卓也はレジから戻って来ると、小声で言った。
「凄い修羅場でしたね」
「ああ……」
陸は小さく頷いてから、何事もなかったようにグラスを拭き始める。
グラスを拭きながら時折女性の横顔をチラリと見ていた。
その顔色は、心なしか蒼白かった。
モスコミュールを飲み終えた女性は、
「ご馳走様でした」
先程までの気の強い様子とは一変し、か細い声で言ってから少しふらつく足取りで店を後にした。
他の客達は、無関心を装いながら女性が出口へ向かって行くのをさりげなく見ている。
卓也は女性に向かって、
「ありがとうございました」
と声をかける。
女性が店のドアをパタンと閉めるのと同時に、陸が手にしていた布巾をカウンターの上へ置いた。
そして、
「俺、ちょっと煙草買ってくるわ!」
陸はそう言うと、財布とスマホを手にして出口へ向かう。
「えっ? 陸さん、煙草は去年やめたんじゃ……?」
卓也は不思議そうな顔をしながら声をかけたが、陸は既にドアを開けて外へ出るところだった。
陸は店の外へ出ると、商店街の雑踏の中を見回す。
すると、10メートルほど先に女性はいた。
その足取りは、力なくフラフラとしている。
陸はホッと息を吐くと、ゆっくりと女性の後をついて行った。
この時の陸は、なぜだかわからないが女性の事が気になっていた。
それは、女性が好みのタイプだったとか、一目惚れしたとかそういった事ではない。
とにかく、現役自衛官だった頃のように、『嫌な勘』が働いたと言った方が正しいのかもしれない。
とりあえず女性がタクシーに乗るか駅へ向かうのを確認したら、すぐに引き返そうと思っていた。
しかし、女性は商店街を抜けて線路沿いの道へ突き当たると駅とは反対方向へ歩き始める。
不審に思った陸は、そのまま後をつけて行った。
しばらく歩くと、踏切の音が聞こえてくる。
この先に踏切があるようだ。
この辺りは商店街から外れた住宅街なので、この時間道を歩く人はほとんどいない。
猛スピードで電車が通り過ぎると、踏切音がやんだ。
遮断機が上がると同時に、数台の車が踏切を渡る。
その時、また踏切の警報音が響き始めた。
カンカンカンカン……
その音に促されるように、女は歩く速度を速めた。
今踏切に向かって歩いている女性の名は、三船華子・27歳。
華子は都内の緑山学院大学を卒業後、大手化粧品会社へ就職した。
本当は、大学時代ずっと一緒に過ごしていた重森悟という男性と結婚をするつもりでいた。
重森は当時慶尚大学医学部の学生で、華子は慶尚大学のサークルへ入った事がきっかけで重森と知り合う。
しかし、華子は卒業前に重森に振られてしまう。
てっきり自分は重森の恋人だと思っていたのに、重森は華子の事を遊びだと思っていたようだ。
突然重森から別れを告げられた華子は、愕然とした。
そして仕方なく就活で唯一受かっていた化粧品会社へ就職する。
てっきり本社勤務だと思っていた華子が配属された先は、デパートの化粧品売り場だった。
プライドの高い華子に販売員の仕事が勤まる訳もなく、華子は化粧品会社を早々に退職。
その後は、様々な派遣やアルバイトでなんとか生計を立てていたが、
いよいよ生活費が底をつきそうになったので本意ではなかったが銀座のクラブで働き始める。
しかしそこは想像を絶する世界だった。
銀座の夜の蝶たちは、華子よりも何倍も、いや何十倍もプライドが高く意地悪だった。
一見すると優雅な世界のその裏側は、いじめや策略、妬みやマウントがひしめき合う壮絶な場所だった。
女達はつねに足の引っ張り合いをし、女王の座を奪い合う。
そんな厳しい闘いを毎日見ていると、さすがに気の強い華子でも心が疲弊していく。
コメント
8件
華子さん、大丈夫かな⁉️ 陸さんのイヤな予感が当たらないことを祈ります🙏
華子の大学時代以降は大変の一言だったんですね 😥でも華子の性格や性質を考えると、わからなくもないなー、でも今回はプライドもズタボロのようで…陸さんのイヤな予感が当たりませんように🥵
不信→不審ではないですか?