その後、凪子は信也の家へ行き簡単な賃貸契約書にサインをした。
契約書と言っても、ほとんど形だけのものだった。
それが終わると信也がコーヒーを入れてくれたので、二人はコーヒーを飲みながら話し始める。
「一つ言うのを忘れていたんだけどさ…」
「何?」
「あのマンションを貸す代わりに、俺の頼みを聞いてくれないか?」
「なぁに? 改まって」
「うん……実は絵を再開しようと思ってさ…」
「絵? 絵って油彩?」
「そう…」
「へぇ、いいんじゃない? 元々信也は美大出の画家志望だったんだから!」
「ん…ずっと筆を握っていなかったのに、最近なんか無性に描きたくなってね」
信也は今のファッションの仕事を始める前は、油絵の絵画コンペに何度も入賞するほど実力のある画家だった。
そのまま絵を描き続けていたら、今頃は著名画家の中に名を連ねていたかもしれない。
もちろん、今はファッション業界の第一人者としてその名は有名だ。
そんな信也が、再び絵の世界へ戻りたいと言っているのだ。
「それ凄くいいと思うわ。こっちの仕事は今はだいぶスタッフに丸投げ出来るようになったんでしょう? だったら空いた時間
を変な女遊びなんかに費やしたりしないで、やりたい事に使った方がいいんじゃない?」
「変な女遊びとか言うなよ…」
「あら本当の事でしょう?」
凪子はまたコーヒーを一口飲むと、フフッと笑って続けた。
「で、私に頼みって何?」
「うん……離婚が成立した後でいいから、絵のモデルになってくれないか?」
「えっ? 私が?」
「ああ。人物画がどうしても描きたい」
「だったらプロのモデルを雇えばいいじゃない。その方が自分好みの女性を描けるわよ」
「いや…それじゃ意味がないんだ…どうしても凪子に頼みたいんだ…」
信也の真剣な表情に、凪子は心臓がドキドキしていた。
しかしそれを悟られないようにあえて明るく言った。
「まさか、ヌードじゃないでしょうね?」
「ハハッ、それもいいなぁ。でも違うよ。ちゃんと服を着てもらうから」
「どんな服?」
凪子は露出の多い服では困ると思い念の為に聞く。
すると、信也はちょっと待っててと言いリビングを出て行った。
しばらくして戻って来た信也は、
美しいワンピースを手にしていた。
それは、信也が得意とする繊細な花柄のデザインのとてもエレガントな服だった。
ホルターネックの首元は、肩の露出が多い割に品がある。
薄いベージュのシフォン生地には、丁寧な刺繍が施されていた。
その可憐な花柄は、信也が今まで作ってきた大胆で華やかな柄とは違い、とても優しい雰囲気だ。
ベージュの上に散らばる少しくすんだピンクとグリーン、そして所々に散らばるライトブラウンの刺繍が、
絶妙なバランスでそのワンピースの上品さを引き立てていた。
そしてその色味は、凪子のライトブランの髪と白い肌によく映える。
まるで凪子の為に作られたのでははないかと思えるほど凪子によく似合いそうだった。
「素敵!」
凪子はワンピースを手にするとうっとりして刺繍部分を指でなぞる。
「モデルが終わったら、そのワンピースは凪子にプレゼントするよ」
「本当? だったら引き受けようかな」
すっかりそのワンピースの虜になっていた凪子は、笑顔でそう答えた。
「ありがとう! 助かるよ」
信也が微笑んで言った時、凪子はハッとする。
「まさか、そのモデルをさせる為にこのマンションを?」
「ハハッ、バレたか!」
「ちゃっかりしてるー! でもまあいいわ。離婚したらどうせ自由な時間がいっぱいだし」
凪子はワンピースを胸に当てると窓ガラスに自分の姿を映して嬉しそうに身体を揺さぶった。
凪子はこれから手に入れる自由を前にして、少し開放的な気分になっていた。
そこで素敵なワンピースを見たのでさらに気分が良くなる。
そんな無邪気に喜ぶ凪子の姿を、信也は穏やかな表情で見つめていた。
コメント
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凪子さんの好みを知り尽くしてる信也さんの手腕に掛かったね、凪子さん☺️信也さんが凪子さんにモデルを頼んだ真意はまだわからないけど、絵が完成した時に信也さんからのプロ◯ーズとか💏✨勝手に期待してます〜💍