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文化祭の準備が校舎の隅々をざわつかせていた。
放課後の図書室は、飾り付けの材料と、誰かの声がかすかにこだまする群衆の気配から切り離されて、静かだった。
紙の匂いと、窓の外で落ち着かない風が迷い込む。
そんな場所の奥、背の低い書架のあいだに、遥はいつものように一人でいた。
手元には、何かを書くふりをしたノート。
実際には、ページは空白だった。
日下部は、頼まれたわけでもないのに、そこに来た。文化祭のパンフレットの校正をやっていて、〝クラスで目立たないやつにも声をかけておけ〟と誰かに言われたのかもしれない。
あるいは自分の中で、遥の影を追ってしまう癖が、また顔を出したのかもしれない。
「……なに、それ、書いてるふり?」
日下部は落ち着いた声で言い、空いている隣の席に静かに荷物を置いた。
彼の声に、遥は反応をしなかった。
ただ、まぶたの奥でわずかに動きがあった。
目をそらさない。けれど、視線の距離は微妙に開いていた。
「……別に、見せるもんでもない」
遥の声は、いつもほど細くもなければ、凍ってもいなかった。ただ、空気の中で音が薄く溶けていくようだった。
「文化祭の話、進んでる? 俺、パンフの担当になってさ。クラス全体の紹介のところ、書いてるんだ」
日下部はページをめくって、スケッチのようなラフを見せた。
「それで、誰かに短いコメントとか、ちょっと声かけてまわってて。……遥、お前のこと書いてもいいかな。なんか、ああいう静かな奴のこと、読んでみたいって思ってさ」
その「書いてもいいかな」が、まるで柔らかく差し出された手袋のように浮いて、遥の内側で何かが固まった。
「やめてくれ」
本当に、言葉が出そうだった。出さないために、喉の奥で押さえ込んだ。
日下部は、眉根をほんの少し寄せた。
「なんで? 別に悪い意味で言ってるわけじゃない。……ただ、そこにいるって、知っててもらいたいって思っただけ」
知られたくない。
見られたくない。
近づかれると、壊したくなる。
壊れなかったら、自分が自分でいられない。
「……そういうの、うるさいんだよ」
遥は言葉を選んだ。突き放すように、低く。
それでも、日下部の目は揺らがなかった。
「……そっか。なら、無理に書かない。でも、なんかあったら言ってくれよ」
日下部はページを閉じて、ペンを置いた。
その距離感を保ったまま、それでもそこに居続ける。
そのことが、遥の胸のどこかをざわつかせた。
そのとき、部屋の入り口に人影が差した。
影はゆっくり、書架の間を縫って近づいてくる。蓮司だった。いつものように、とても自然に。文化祭の“顔出し”でもあるように、他のグループを偵察するふりをして、図書室まで足を運ばせたのだろう。あの薄い唇の端に、わずかな笑みが浮かんでいた。
「……あ、日下部か。お前、またこいつのところに?」
蓮司は軽く声をかけた。振り向いた遥の表情を、まるで展示物を眺めるかのように細く眺めた。
日下部が一瞬だけ顔を強ばらせる。
「……お前、何してる?」
蓮司は何でもないように肩をすくめた。
「文化祭の資料をね、こっちでも拾っておこうかと思ってな。で、こいつが静かに潜んでるのを見つけたからさ。珍しいな、あいつと話してるのって」
蓮司の口調に、両義的な含みがあった。
遥の肌の下で、昔から慣れ親しんだ違和感が燃え上がる。
日下部が、あのまっすぐな目で自分を見て、何かをしようとしている。
それを見つけて、蓮司は面白がっている。
そして、面白がることで、日下部の“普通の善意”に角度をつけて、何かが狂い始める。
「遥と話してるって聞くとさ、妙に目立つ気がしてさ。クラスも、その……『あいつに近づく奴』って見るかもしれないだろ? 文化祭の目立つところで、そんなことされたら、お前、どう思う?」
蓮司の声は低く、穏やかだ。けれどそこには、さりげなく線が引かれていた。破壊の匂いが、まるで空気に混ざるように緩やかに立ち上る。
日下部がその言葉に念を置いていないとは、決して言えなかった。
「……そういうつもりじゃない」
日下部が答えると、蓮司はくすりと笑った。
「それはそうだろうな。でもな、他人の好意ってのは、受け取った方が責任を持つ。受け取ったままにしておくと、見られる側に意味がついて回る。……あいつは、壊したくなるタイプだろ? 壊せないけど、壊したくなる奴」
その言葉の選び方が、一瞬、遥のなかにひびを走らせた。
「あいつ」と呼ばれた自分。
壊したくなる対象として漠然と扱われたこと。
日下部の存在を「特別」なものにすり替えるように、蓮司は静かに細工を施していた。
日下部は、蓮司の目をまっすぐ見返した。
「そんな風に言うなよ。お前、何がしたいんだ?」
蓮司はゆっくりと肩をすくめた。
「別に。見てるだけだよ。……ただ、俺はあいつの壊れていく過程が好きなだけ」
その言葉は、たとえ直接的な暴力の宣言ではなくても、日下部の中に、異物の感覚を差し込んだ。
遥のまわりの空気が、細かく振動した。
日下部の「信じるけど、警戒する」色が、いつもより重くなったのがわかった。
蓮司は、肩越しに遥を見た。
その瞳の奥には、質問が含まれていた。
――どこまで自分を守れる?
――どこで自分から壊したくなる?
日下部がふたたび口を開く。
「……俺は、向こうがどう見ようが、関係ない。そういうことをお前が持ち出すことで、こいつの殻を剥がそうとしてるだけだろう」
蓮司がゆっくりと首をかしげた。
「剥がす? それとも、浮き立たせる? 壊れかけたものって、面白いよな。あと少しで崩れるか、あるいはもう一回自分で固めるか。見てる側としては、どちらも味がある」
その瞬間、遥の心の内部で、たった一つの線が切れたような感覚がした。
壊したい。
壊してしまえば、これ以上「見られる」ことも、「理解される」ことも、全部消える。
壊せば、静かになる。
壊すことで均衡を取り戻せる気がした。
「……やめろ」
小さな、けれど意図的な声だった。日下部に向けられたのではない。蓮司の方を見て、それを告げた。声の先に、冷たさと祈りと、怯えが混ざっていた。
蓮司は、その声を舐めるように聞いた。
「お前、弱いな」
その一言に、何かが絡んだ。
日下部は、遥の方を見た。
彼の目には、焦りではなく、問いが浮かんでいた。
――それでも、何かをしたいのか。
日下部は、顔を少し近づけた。
「……なんでも、いい。話せるなら話せ。話せないなら、無理にじゃない。お前のことを、勝手にかき回すつもりはない」
遥の身体が、反射的に震えた。
すべてを壊したくなる衝動と、壊さないでほしいという、矛盾した希求が、喉の奥でぶつかる。
日下部のその“静けさ”が、なぜか最も鋭い刃に変わった。
蓮司はゆっくりと立ち上がり、二人を半歩離れた位置から俯瞰したように見下ろした。
「じゃあ、俺は――ちょっと抜けるよ。文化祭の他の連中も見ないといけないからな」
言いながら、何かを遺していった。
――その「何か」は、日下部の中に、そして遥の中に、じわじわと残る。
蓮司の背中が、書架の間を抜けていく。
その足取りは軽く、だが確実に、「次の仕掛け」を考えているリズムを刻んでいた。
二人だけになった図書室。
日下部がゆっくりと、椅子の背にもたれながら、肩の力を抜いた。
「……ごめん。あいつ、よく分かんないこと言ってさ。気にするな」
遥は、目を伏せたまま、何も言わなかった。
しばらくして、日下部はノートをもう一度開いた。
ページはまだ白い。
「……文化祭、どうする? お前のこと、書かなくていいって言ったけど、……一行だけでいい。お前が、どうして静かで、何を抱えてるかは、俺は知らない。でも、そこにいるっていうのだけ、書いていい?」
その言葉に、遥の指先がわずかに動いた。
本来なら、拒絶であるはずの反応。
でも、その指先は、言葉にはしなかった。
「……書いてもいい」
それは、低く、壊れそうな声だった。
日下部が目を細めた。
「……うん。ありがとう」
言葉に救いは含まれていなかった。感謝でも、交わしものでもなかった。ただ、そこにある事実として、少し形を与えるための交換だった。
遥の内側には、まだ蓮司の残した波紋がひろがっていた。
壊したくなった自分と、壊さずにいた自分のあいだにある、薄い線。
日下部はそれを、見ていた。
壊れたかどうかを確認はしない。なぜなら、確認することもまた、壊す可能性があるから。
夕暮れの光が、図書室の窓を斜めに差し込む。
二人の影が、細く伸びた。
その影の端に、ほんのわずか、重なりがあった。
それが、明らかなものになるのか、またすぐに裂けるのか、どちらにもなりうる。
蓮司の観察は続く。
日下部の信じる力は、疲弊しながらも形を保とうとする。
遥の中では、壊す衝動と、壊されることを拒む衝動が同時に蠢いている。
ほんのひとときの「ずれ」と小さな合図で終わる。
だが、そこに刻まれた線は、次の波を必ず引き寄せる──静かに、見えないところで。