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第十章 白霧山の彼方へ
第九話 頂上に刻まれた運命
出発してから五日目の朝。
昨晩の嵐が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
まだ濡れた岩肌が、朝の光を受けて眩しく輝いている。
洞窟を後にした一行は、再び白霧山の頂上へ向かって歩き始めた。
だがここから先には、もう“道”らしきものは存在しなかった。
目の前へ広がるのは、左右どこまでも続く巨大な岩壁。
見上げた先は厚い雲に覆われ、その先にある山頂の姿は見えない。
「……ここ越えるんか」
ダイチが思わず息を呑む。
その隣で、ジントも緊張したように唇をきゅっと結んでいた。
「大丈夫だ」
先頭を歩くハヤトが振り返る。
「傾斜が緩い場所を選んで進む。
雪も降っていないから、滑る心配はほとんどないだろう」
そう言ってハヤトは馬の手綱を引きながら、慎重に足場を確認して進み始めた。
後に続く四人。
しかし岩場は想像以上に険しかった。
時には大きな岩を迂回し。
時には足場の悪い斜面を横切る。
吹き付ける風は冷たく、強く身体を揺さぶってくる。
「うわっ……!」
よろめいたジントを、ダイチが咄嗟に支えた。
「大丈夫か!?」
「う、うん……ありがと」
ジントは小さく息を吐く。
「無理すんなよ」
「ダイチこそ」
そんな短い言葉を交わしながら、一行は一歩ずつ、確実に山頂へ近付いていった。
やがて、再び霧が辺りを包み始める。
視界が白く染まり、周囲の距離感さえ分からなくなっていく。
魔石灯で周囲を照らし、互いを繋ぐようにロープを使いながら、一行は慎重に登り続けた。
果てしなく続くように思えた岩場。
けれどしばらく進み続けたその時。
不意に、周囲を覆っていた霧が薄くなる。
雲の中を抜けたのだ。
同時に険しかった地面が少しずつなだらかになっていく。
吹き抜ける風。
流れていく白い雲。
空気が、変わった。
気付けば空がずっと近い。
遥か下には、厚い雲が海のように広がっていた。
「はぁ……もう足パンパンやわ……」
シュンタがついに力尽きたように肩を落とす。
「まだ半分も進んでないとか言われたら泣くで……」
「安心しろ」
ハヤトが小さく笑った。
「もう少しで山頂だ。
あと一息だからこのまま進もう」
ジントも肩で息をしていた。
額には汗が滲み、細い指がぎゅっと服を握っている。
それでも黒い瞳は真っ直ぐ前を見据えていた。
そして一行はついに、白霧山の頂へ辿り着く。
その瞬間。
誰も、言葉を発することができなかった。
目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
遥か眼下に広がる果てしない雲海。
夕焼けに染まる空。
金色と紅色が混ざり合い、
流れる雲を静かに照らしている。
遠く連なる山脈。
その向こうまで続く広大な大地。
風が吹き抜け、雲がゆっくりと流れていく。
世界は、こんなにも広かったのかと、思わず息を呑む。
「……うわぁ……」
最初に声を漏らしたのはジントだった。
黒い瞳を大きく見開き、夕焼けを映している。
夕日が五人の顔を柔らかく照らした。
そこに、言葉は必要なかった。
ただ、今この瞬間だけがそこにあった。
時間が過ぎるのも忘れて、五人はその光景から目を離せなかった。
やがて夕日が地平線の向こうへ沈み、空の色はオレンジから深い藍色へ、美しいグラデーションを描いていく。
吹き抜ける風は冷たい。
けれどその空気さえ、どこか心地良く感じられた。
「……世界って、こんなに綺麗なんだね……」
ジントがぽつりと呟く。
「ああ……本当だな」
ハヤトが静かに頷いた。
「オレ、一生この光景忘れんわ……」
シュンタは感嘆したように空を見上げる。
「感動しすぎて、うまく言葉にできん……」
ダイチも真面目な顔で呟いた。
ジュウタロウは何も言わず、ただ静かに目を細めている。
しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。
ただ、その余韻へ身を委ねていた。
その時だった。
ジントがふと、前方に何かぼんやりと光るものを見つける。
「……?」
思わず目を凝らす。
夜の空へ昇り始めた淡い月明かりの中。
それは微かに白く輝いていた。
「何だろう……」
引き寄せられるように、ジントはゆっくり歩き出す。
「ジント?」
ダイチが声を掛ける。
けれどジントは返事をしない。
まるで何かに呼ばれているように、真っ直ぐ前へ進んでいく。
山頂の中央。
白い月の光に照らされ、浮かび上がるようにそれは静かに立っていた。
膝ほどの高さの、長方形の石碑。
角は削れ、表面には長い年月を物語るような傷が刻まれている。
苔に覆われた古い石碑。
けれどなぜかジントには、初めて見るものではないような感覚があった。
ジントはゆっくりしゃがみ込み、石碑へそっと手を伸ばす。
冷たい石肌。
指先が文字へ触れた瞬間。
ーーボヮン。
石碑に刻まれた月の紋章が、一瞬だけ淡く光った。
「……!」
ジントが小さく目を見開く。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように静けさが戻った。
「ジント!」
後ろから四人が慌てて追い掛けてくる。
ダイチが駆け寄り、ジントの隣へ立つ。
「どうしたん?」
ジントは答えず、ただ石碑を見つめていた。
ハヤトはその前に佇む石碑を見るなり息を呑む。
「これは……」
ゆっくりと近付き、刻まれた文字へ視線を落とす。
「古代文字だ」
そして一番上に刻まれた丸い紋章を見る。
「……月の一族に関係するものかもしれない」
「月の一族……」
シュンタが小さく呟く。
その言葉に、全員の表情が変わった。
ハヤトは慎重に文字を追っていく。
「読める部分だけだが……」
静かに読み上げる。
「“銀月、天を満たす時”」
「“闇を宿す者、現れん”」
ジントの黒い瞳が、僅かに揺れる。
「“その身に全てを受け”」
ハヤトの声が少し低くなる。
「“やがて月へ還る”」
その言葉に誰も何も言わなかった。
ただその意味だけが、静かに残った。
ハヤトは『月蝕記』を思い出す。
闇より生まれし者。
世界に漂う闇を受け止める者。
そして最後には、全てを月へ還す存在。
「……月蝕の子のことを、記しているのかもしれない」
ジュウタロウが静かに呟く。
「じゃあ……」
ダイチの声が僅かに揺れる。
「ジントも……」
その先の言葉は、誰も口にしなかった。
けれど全員が、同じことを考えていた。
月蝕の子は、最後には月へ還る。
それが世界のための役割なのだと。
その時。
「……終わりじゃない」
ぽつり、とジントが呟いた。
全員の視線が集まる。
ジントは石碑を見つめたまま、静かに続ける。
「ここに書いてある」
指先で文字をなぞる。
「“それは終わりにあらず”」
「“世界の巡りを戻すための、始まりなり”」
ジントは小さく目を伏せた。
けれどその表情には、不思議と恐れはなかった。
ただどこか寂しそうな色だけが、黒い瞳の奥に浮かんでいた。
山頂を吹き抜ける風の音が静かに響く。
「……ジント?」
ダイチが心配そうに顔を覗き込む。
ジントはハッとしたように瞬きをした。
「あ……ごめん」
「今、なんで読めたんや?」
シュンタが不思議そうに尋ねる。
ジントは困ったように首を横へ振った。
「わからない……」
視線を石碑へ戻す。
「でも……知らないはずなのに、知っている気がした」
その言葉に、四人は静かに石碑を見つめた。
まるで長い年月を越えて誰かが待ち続けていたような。
そんな不思議な感覚だけが残っている。
「……きっと」
ダイチが小さく呟く。
「月蝕の子のための石碑なんやな」
「おそらくな」
ハヤトが頷く。
「古代の月の一族が、後世へ残した記録なのかもしれない」
ジュウタロウは静かに石碑を見る。
「闇を消すのではなく、還す存在として記している」
その言葉に、ジントの黒い瞳が揺れた。
自分の中にあるもの。
ずっと恐れられてきたもの。
それをこの石碑は、必要なものとして記している。
その事実が少しだけ不思議だった。
「でも……」
シュンタが首を傾げる。
「“終わりにあらず”って書いてあるんやろ?」
「ああ」
ハヤトが頷く。
「“世界の巡りを戻すための、始まりなり”」
静かな声が夜の山頂へ響く。
「どういう意味なんだろうな」
誰も答えられなかった。
ただ、月蝕の子という存在が世界にとってどんな意味を持つのか。
その答えへ、少しだけ近付いた気がした。
冷たい風が山頂を吹き抜ける。
「……そろそろ戻ろう」
ハヤトが静かに言った。
五人はもう一度だけ石碑を振り返る。
白い月明かりの中。
古い石碑は、何も語らず静かに佇んでいた。
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コメント
1件
うわぁ……第10話、すごく綺麗な回でしたね🌙🤍 まず山頂に辿り着いた時の描写、夕焼けと雲海の景色が目に浮かぶようで、思わず息を呑みました。ジントが「世界って、こんなに綺麗なんだね」って呟くところ、胸がぎゅっとなった……彼の目に映る世界が変わっていく瞬間、すごく大事だなって。 石碑の場面も印象的。触れた瞬間に光る演出、そして「終わりにあらず」「始まりなり」というメッセージ。ジントの運命に希望が見えた気がして、少し泣きそうになりました。comiさんの紡ぐ世界、ずっと大切に読ませてください🥀