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日下部は立ち尽くしていた。遥の目は、すでに何も映していない。
焦点はずれ、どこか遠くの、過去に置き去りにされたままだった。
「──そっか」
不意に、低い声が落ちた。
「何もされないことが、怖いんだな」
優しさではなかった。
ただ、淡々と事実を確認するように、日下部は言った。
語調に揺れはなく、感情もない。
けれどその無機質な響きが、かえって遥を撃ち抜いた。
「……っ、違っ……!」
遥が叫んだ。
身体を抱きしめるように腕を巻きつけながら、言葉にならない嗚咽が喉を塞いだ。
「違う、オレは、そんな……甘えたこと、言いたいわけじゃ……!」
「じゃあ、どうしたい?」
静かに、けれど容赦なく、日下部が問う。
「戻りたいのか? “いつもの生活”に」
遥は言葉を失った。
口を開いて、喉の奥で何かを吐こうとしたが、うまく出てこなかった。
吐き出したくても、呼吸ができなかった。
「毎日殴られて、笑われて、命令されて、……それが“日常”だった。
けど今は、それがない」
日下部は少しだけ近づいた。
遥が無意識に一歩後ずさる。
「殴られなかった今日。
命令されなかった今日。
誰にも何もされなかった今日──それが、“怖い”」
「やめろっ……」
遥の声が掠れて震えた。
「黙れ……わかってんだよ……! そんなの……わかってんのに……ッ!」
「じゃあ、教えてくれよ。遥」
日下部の声は変わらなかった。
冷たく、静かで、揺らぎがなかった。
「お前は、誰に“されたい”んだ?
沙耶香か? 晃司か? あのクラスのやつらか? それとも──」
「やめろッ!!」
遥が床に膝をついた。
潰れたような声だった。
吐き気のように、嘔吐のように、奥底から絞り出された音。
「オレは、そんなこと……思ってない……思ってたくない……!」
「だったら今のこれは、なんなんだ?」
日下部の声は容赦なかった。
遥は答えられなかった。
息が詰まり、肩が震え、視界がゆがんだ。
涙は流れていない。ただ、全身から汗が噴き出すようだった。
「なぁ、遥」
日下部はさらに一歩、近づいた。
「本当は、“何もされない”って、ただの空白じゃなくて──
“置き去り”なんじゃねぇの?」
遥の中で、何かが音を立てて崩れた。
──誰も、オレに触れない。
──誰も、オレを見てない。
──誰も、オレに期待もしない、命令もしない、罰もしない。
“ただ、いなくなったように扱う”。
それが、どんな痛みよりも耐えられなかった。
どんな暴力よりも、自分を否定された気がした。
遥は、声を上げずに泣いた。
表情も変えず、ただ、肩が震えていた。
それを見て、日下部はようやく、
ほんの少しだけ視線を逸らした。