アパートの鍵を開けて中に入ると、布団一式が置かれていた。
(あれ? これって……)
美宇の布団は、まだ届いていない。
だから今夜は寝袋で寝ようと、スーツケースに詰めてきた。
不思議に思いながら、美宇は部屋の中に入った。
部屋は広めのワンルームだ。
玄関を入ると、右手に小さなキッチン、左手にはトイレとバスルームがある。
ここに来ると決めたとき、美宇は自分で賃貸アパートを探さなければならないと思っていた。
けれど、ネットで調べても、見つかるのは戸建てばかりで、一人暮らし向けのアパートはほとんどなかった。
もし朔也がこの部屋を用意してくれていなかったら、住む場所すら見つけられなかったかもしれない。
そう思うと、自分がどれだけ辺鄙な場所に来たのかを改めて実感した。
(このお布団も、青野さんが用意してくれたのかな?)
そう思いながら、美宇は部屋の奥へ進み、窓を開けた。
窓の外には、さっき見たカフェがあり、隣家との隙間からは青い海が見える。オホーツクの海だ。
澄んだ空気と潮の香りを深く吸い込むと、少し気持ちが落ち着いた。
(ここが私の新天地なのね。頑張らなくちゃ)
とはいえ、東京からの荷物はまだ届いていない。
掃除でもしようと思ったが、部屋が狭いので五分もあれば終わりそうだった。
(そうだ。大家さんにご挨拶しなくちゃ)
美宇は拭き掃除を終えると、菓子折を手に外に出る。
そして、朔也に教えてもらったこのアパートの大家の家へと向かった。
瀬川家の玄関は二重扉になっていた。雪国ではよく見かける造りだ。
インターホンを押すと、すぐに女性が応答し、玄関が開いた。
「どちら様?」
「あ、初めまして。今日からアパートの101号室を借りることになりました、七瀬と申します」
「ああ、東京から来た……初めまして、大家の瀬川です」
「今日からお世話になります。あの……これ、つまらないものですが」
「まあ、私に? わざわざありがとう」
「あの……お部屋にお布団が置いてあったのですが、あれは?」
気になっていた布団のことを、美宇は瀬川に尋ねた。
「ああ、あれはうちのお布団なの。東京からだと荷物が一日遅れるかなと思って、置いておいたのよ。よかったら使ってちょうだい」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。最近朝晩冷え込むから……」
「ありがとうございます。助かります」
「荷物は明日届くんでしょう?」
「はい。午前中に到着予定です」
「じゃあ、片付けで忙しくなるわね」
「はい」
「何か困ったことがあれば、いつでも聞いてね」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
美宇はペコリと頭を下げ、瀬川家を後にした。
(すごく優しそうな人……)
自然と笑みがこぼれる。
(じゃあ、近くのスーパーでも探索してみますか!)
急に元気が湧いてきた美宇は、携帯の地図を頼りに、最寄りのスーパーへ向かうことにした。
その頃、工房に戻った朔也は、電動ろくろの前に座り、作品作りに取りかかっていた。
帰宅後すぐに作業を始め、今はお得意さまからの注文品を制作中だ。
朔也の器には根強いファンが多く、個展に訪れた客から直接注文が入ることも珍しくない。
静かな工房には、電動ろくろのウィンウィンという回転音だけが響いている。
朔也の表情は真剣そのもので、集中している様子がうかがえる。
ひとつ器を仕上げると、切糸で粘土から丁寧に切り離し、傍にあった板の上に置く。
そしてすぐに、同じ形の器を作り始める。
ろくろに残っていた粘土を器用にまとめると、先ほどと同じ器があっという間に形になる。
注文は五つだが、予備も含め倍の数を作る予定だ。
十個目の器が完成した頃には、すっかり辺りが薄暗くなっていた。
「もうこんな時間か……」
土を触っていると、時間が経つのは本当に早い。
朔也はろくろの電源を切り、皿が載った板を工房の隅にある棚へと運んだ。
それから、流しで泥がついた手を丁寧に洗う。
静まり返った工房には、来週から新しいスタッフの美宇が通ってくる予定だ。
「少し掃除でもしておくかな……」
床の隅に埃を見つけた朔也は、苦笑いを浮かべた後、静かに掃除を始めた。
その頃、スーパーに行っていた美宇は、買い物を終えてアパートの部屋へ戻ってきた。
小さいながらも、スーパーには食材や総菜、弁当などが豊富に揃っていて、美宇は今夜の夕食用に弁当を、明日の朝食用にパンを二つ買ってきた。
(思ったより品揃えが良くて便利そうなスーパーだったな)
手を洗った美宇は、家具も何もない部屋の床に座り、さっそく弁当を食べ始める。
もうお腹がぺこぺこだ。
一口食べた瞬間、美宇は思わず声を漏らした。
「わぁ、美味しい!」
地元のパートの主婦が作ったと思われる弁当は、どこか懐かしく優しい味がした。
明日届く予定の荷物は、それほど多くない。
部屋がワンルームだと聞いていたので、必要最低限の家具しか送らなかった。
二人用の小さなダイニングテーブルセットにチェストが一つ、カウンターや間仕切りにも使える食器棚が一つ。それに小さなソファー。家具はそれだけだ。
ベッドや机などの大きな家具は、すべて処分した。
引越し代をなるべく抑えるために荷物を減らしたので、狭い部屋でもすっきり暮らせそうだ。
弁当を食べ終えた美宇は、ペットボトルのお茶を飲みながら、今日一日の出来事を思い返す。
(青野朔也……彼は、どんな人生を歩んできたんだろう?)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
「ダメダメ! 彼は新しい上司なんだから、私情を挟んじゃダメ!」
美宇はそう呟きながら立ち上がって、窓辺へ向かった。
窓を開けると、冷たい空気が一気に部屋に流れ込んでくる。
「うわっ、さむっ!」
すっかり暗くなった町は、しんしんと冷え込んでいた。
「まだ10月なのに……」
改めて、美宇は自分が北の果てにいることを実感する。
「最果ての地なら、星空もきっと綺麗だろうな……」
美しい星空を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。
その瞬間、美宇は自分が久しぶりに笑っていることに気づいた。
環境を変えたことは、正解だったのかもしれない……そんな気がした。
「さあっ、明日から頑張ろうっと」
冷たい空気を思い切り吸い込んだ美宇は、ぶるっと震えながらそっと窓を閉めた。
コメント
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ワクワクしかないね。
新しい環境でスムーズにスタート‼️ まわりの人たちが穏やかで優しそうでよかったです。 月曜日からの仕事も頑張れそうですね〜
ろくろで集中して製作してる朔也さんの姿は真剣でかっこいいんだろうな💕💕 美宇ちゃんはアパートの手配&布団までの暖かい配慮は嬉しいし新しい環境で緊張してた心がホッとするね💕 長い時間一緒に働くのだから朔也さんとの相性も気になるね٩(„❛ ֊ ❛„)