進に荷物をすべて運び込んでもらった紫野は、その後片付けに取り掛かる。
持ち物が少なかったこともあり、片付けはすぐに終わった。
着物を収めたタンスの引き出しを閉めると、紫野は隣にある西洋風のタンスを開けてみる。
中にはハンガーポールがついていた。
(こちらには、ワンピースやドレスを吊るすのね……)
蘭子の部屋にも同じようなタンスがあったので、紫野はそう思った。
しかし、洋服を一枚も持っていない紫野は、少しみじめな気持ちになる。
(お給金を貯めたら、いつか買える日がくるから頑張ろう)
そう思いながら、紫野はタンスの扉を閉めた。
壁掛け時計が三時五分前を指していたので、紫野は鏡の前で身だしなみを整え、部屋を後にした。
階段を降り、玄関前のホールに出た紫野は、美津に指示された部屋の扉をノックする。
すると、中から美津の声が響いた。
「どうぞ、入ってちょうだい!」
「失礼いたします」
部屋に入ると、そこは応接室だった。
ソファには、美津の他に男性が一人座っていた。国雄の父親だろう。
紫野は一気に緊張感に包まれる。
「どうぞ、そちらへ座って」
「はい……失礼いたします」
「おお、君が紫野さんか!」
紫野が座ると同時に、男性が笑顔で話しかけてきたので、紫野は挨拶をした。
「大瀬崎紫野と申します。この度は、こちらのお屋敷で雇っていただき、感謝いたしております」
紫野は深々と頭を下げた。
それに応えるように、男性が笑顔で言った。
「私は国雄の父の貞雄と申します。これからよろしくお願いしますよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
紫野が再び頭を下げると、今度は美津が口を開いた。
「では、簡単に説明させてもらうわね。この家で、紫野さんにはいろいろとやってもらいたいことがあるの」
「はい……」
紫野は手元で古びたノートを開き、鉛筆を持つ。それを見た美津が、少し不思議そうに尋ねた。
「それは?」
「女学校時代のノートです。使い切っていないページがあったので、メモ帳代わりにしています。すみません、みすぼらしくて……」
紫野の言葉に貞雄は片眉を上げ、柔らかな口調で言った。
「ほほう、物を大切にされるお嬢さんだね」
「いえ……そんなことは……」
「謙遜しなくてもいい。物を使い切る心は大事だ。その教えは御父上から?」
「はい。父は古い物を大事にする人でした。もちろん、母も常々、物を無駄にしてはいけないと言っておりました」
「素敵なご両親ね」
先ほどまで少しよそよそしかった美津が、表情を和らげている。
すると、貞雄が紫野にこう尋ねた。
「つかぬことをお聞きしますが、紫野さんは一度嫁がれたと聞きました。そのことについて、少し教えていただけますか?」
「はい、何でしょうか?」
「高倉の当主とは、夫婦関係を結んでいないという話は本当かな?」
夫の率直な質問を聞き、美津が慌てて口を開いた。
「これっ、あなた! 失礼ですわよっ!」
「ははっ、まあいいだろう。こういうことは、陰であれこれ詮索するよりもはっきり聞いた方がいい」
紫野はその質問に驚きながらも、二人の気持ちが分かるような気がした。
(これからお嫁さんを迎える独身の息子がいれば、心配するのは当然よね)
そう考えた紫野は、正直に答えた。
「はい。私と高倉様は、戸籍上も、夫婦としても、深い関係を結んでおりません。そうなる前に、あの方は旅立たれましたので……。町ではいろいろと噂になっているようですが、本当に何もございませんでした」
紫野の真剣な眼差しに、貞雄は大きく頷いた。
「嫌なことを思い出させてすまなかったね。でも、正直に話してもらえてありがたい。なぁ、美津!」
「え、ええ……。町にはひどい噂ばかりですものね。お辛かったでしょう?」
「いえ……慣れていますから」
紫野の寂しげな表情を見て、国雄の両親は胸を痛めた。
しかし、紫野はそのことに気付かないまま、二人にこう尋ねた。
「私のような者が国雄様に仕えることで、本当にご迷惑にならないでしょうか? もし不安があるようでしたら、どうぞこの場で解雇してください。私は大丈夫ですから」
紫野の真っ直ぐな眼差しを見て、貞雄も美津も胸が締め付けられるような思いになる。
そして、貞雄が口を開こうとした瞬間、美津が先に言った。
「まあ、何を言うの! あなたは何も心配しなくてもいいのよ。これから一緒に楽しく暮らしましょう! ねぇ、あなた……」
「あ、ああ、そうだな……。紫野さん、これからよろしくお願いしますよ」
温かい言葉を次々とかけてもらい、紫野はほっとして笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」
その時、ノックの音が響き、手伝いの者が入ってきた。
千代よりも少し若い、着物に割烹着姿の女性が、お茶を持ってきたようだ。
「うちのことを切り盛りしてくれているウメさんよ。何か分からないことがあったら、彼女に聞いてね」
「ウメと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「大瀬崎紫野と申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
挨拶を終えると、ウメは後ろに控えていた若い家政婦に合図を送り、紅茶の準備を始めた。
薔薇の花が描かれたティーカップとバウムクーヘンが、紫野の前に置かれる。
香り豊かな紅茶の香りに、紫野は思わず声を上げた。
「まあ! なんて良い香り!」
「紅茶はお好き?」
「はい、大好きです」
「私もよ。このバウムクーヘンもとても美味しいの。どうぞ召し上がって!」
「ありがとうございます。いただきます」
紫野はさっそくバウムクーヘンを一口食べてみた。その味は、懐かしい味がした。
「このバウムクーヘンは東京のものですか?」
「ご存知なの?」
「はい。父が東京出張の際、よく買ってきてくれました」
紫野の言葉を聞き、美津は思わず夫を見る。
「懐かしい……私、このバウムクーヘン、大好きなんです」
「それは良かった。ところで、ご両親は交通事故だったそうですが、お気の毒でしたね。事故はどちらで?」
「東京出張中でした。パーティーに出席するために二人で出掛けていたので」
「そうでしたか。東京のどの辺りで?」
「銀座だと聞いております。運転手が飲酒運転で、おまけにブレーキが故障して利きが悪かったとか……その日は雨も降っていたので、本当に不運が重なりました」
「飲酒運転とブレーキの故障?」
貞雄は何か考え込むような表情を浮かべる。
「あなた、どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。まあ、とにかく、気負わずゆっくり仕事を覚えていってください。何かわからないことがあれば、美津やウメに遠慮なく聞いてください」
「ありがとうございます。使用人の私にまで、こんなに丁寧に接してくださり、本当に感謝しております」
紫野は少しはにかみながら言うと、嬉しそうにもう一口バウムクーヘンを口に運んだ。
その無邪気な表情を見た二人は、思わず見つめ合い、優しい微笑みを浮かべながらうんと頷いた。
コメント
29件
素直て正直な紫野ちゃんの受け答えで国雄様のご両親も心から紫野ちゃんを好きになり嫁として認めた感じですね そして紫野ちゃんのご両親の事故の事も貞雄お父様は不審に思った様ですね マリコ様この後この事故がお話とどう絡んでゆくのかも楽しみです
国雄ちゃんのお父様も、お母様も優しい🥹💓 紫野ちゃんの両親、本当に事故⁉️😰 何か色々と怪しいですよね…😌
意図的に…🥺