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その後、紫野はこれからの仕事について、ウメから教わった。
仕事の主な内容は、国雄の身だしなみの管理、つまり衣類の洗濯やアイロン掛けから、コーディネートに関することまで。それ以外にも、日々の食事のこと、部屋の掃除など多岐にわたる。
洗濯やアイロンは大瀬崎の家でもやっていたので、紫野は慣れていた。
「くれぐれも炭で火傷をしないよう注意してくださいね」
「はい」
紫野のアイロン掛けを見ていたウメが、静かに言った。
「あらまあ! 紫野様はアイロン掛けがお上手だこと!」
「これまでもずっとやってきましたから」
「まさか、大瀬崎のお嬢様がそんなことを? 信じられません!」
「本当ですよ。でも、それが今役に立つなんて思いませんでした」
紫野は微笑みながら答えた。すると、ウメが同情するように言った。
「大瀬崎の現当主様のお噂は、いろいろ耳にしていますよ。表向きは善人を装っていらっしゃるので、富裕層の方々はすっかり騙されているようですが、私どものような立場の者にはすべて伝わってきますから」
「そうなんですか? 一体どんな噂が?」
「紫野様が使用人のように扱われ、虐げられているということですよ」
「そんな噂が……。でも、女学校に最後まで通わせてくれたんですよ。虐げられていたなんて、言い過ぎです」
「そんなことありません。それに、現当主様のご令嬢のお噂も耳にしておりますから」
「蘭子様の噂?」
「はい。頻繁に東京へ出かけては、散財しているという噂です。この町にいらっしゃるときは、女学校時代のご学友と喫茶店でたむろしているとか……小さな町ですから、噂はすぐに広がります」
「まあ、そんな噂が? では、ウメさんは私のこともご存知なのかしら?」
紫野は、陰であれこれ言われるのが嫌だったので、あえてはっきりと尋ねた。
「もちろんでございます。知り合いの中には、以前高倉家に仕えていた者もおりますからね。あの悪名高き高倉の家に無理やり嫁がされた可哀想なお嬢様……と、皆が噂しておりましたよ」
「そう……。そんな私がこちらへ来たことで驚かれたのでは?」
「ええ、それはもう。ただ、異を唱える者など一人もおりませんでしたよ」
「どうして?」
「村上家のご長男である国雄様は、間違った判断をされるお方ではないからです」
「彼は、村上家のご長男だったの?」
「左様です。国雄様はとても素晴らしいお方です。将来はこの家の当主として、皆をしっかり導いていかれるお方ですから」
ウメの話を聞きながら、紫野は国雄が使用人たちから厚い信頼を得ていると強く感じた。
「あ、紫野様、その辺りでもう大丈夫かと。あとは、私がハンガーにお掛けいたしますね」
「お願いします。ところで、ウメさん、『紫野様』という呼び方はどうにかなりませんか? 私も使用人の一人なのですから『様』をつけるのはおかしいと思うのですが……」
「いいえ、これはご当主様からの命令ですので、このままお呼びさせていただきます」
「命令?」
「詳しくは申し上げられませんが、そう呼ぶようにと仰せつかりましたので」
「そうなの? なんだか私だけ、むず痒いわ」
「そのうち慣れますよ。では、次に手回し洗濯機の方へご案内いたします。どうぞこちらへ」
その後も、紫野はウメからいろいろなことを教わった。
その後、少し休憩を挟んでから、夕食の支度を手伝うことになった。
そこでも、これまで大瀬崎家で培った経験が役に立った。
「包丁の使い方も見事ですし、お料理の基礎知識もすでに身に付けていらっしゃるので、もうウメが教えることはございません」
「まあ、嬉しい! それなら、明日から即戦力として一緒に働かせてもらえるかしら?」
「もちろんでございます」
「良かったわ」
紫野の弾むような声に、周りの使用人たちも笑顔を浮かべた。
村上家の台所は、和気あいあいとした雰囲気に包まれながら、夕食の準備が進んでいった。
夕食の時間になると、紫野はウメと共に食堂へ食事を運んだ。
三段の木製台車に料理を載せ、ウメの後に続いて押していくと、食堂には当主の貞雄と美津しかいなかった。
(国雄様は、まだお戻りになっていないのね……)
そう思いながら紫野はウメと共に配膳を始める。
配膳の最中、貞雄がにこやかに紫野に尋ねた。
「どうですか? 仕事の流れは掴めましたか?」
「はい。ウメさんがとても丁寧に教えてくださったので、一通りの流れは理解できました」
「それは良かった。ウメも紫野さんが来てくれて助かるだろう?」
「はい、それはもう! 紫野様はほとんど教えなくてもできるので、ウメはとても助かっています」
「あら、それは良かったわね」
美津も笑顔で言うと、紫野に向かって続けた。
「国雄は今日の夜遅く戻る予定です。あなたは朝早いので、先に休んで構いませんから」
「ありがとうございます」
紫野は笑顔で返事をし、配膳を終えるとウメと共に部屋を後にした。
台所へ戻る途中、ウメがぽつりと言った。
「国雄様は、毎日毎日夜遅くまでお仕事をされていて、身体を壊されないか本当に心配です」
「毎日遅いんですか?」
「はい。仕事熱心な方なので、時間を忘れてのめり込んでしまうのでしょう」
ウメはそう言いながら、小さくため息をついた。
その後、紫野は台所に隣接する和室で、使用人たちと共に夕食をいただいた。
まかない料理とはいえ、ほぼ村上家の家人と同じ食事内容で、その美味しさに紫野は感動した。
(伯父夫婦の代になってからの大瀬崎のまかないは粗末な料理ばかりだったけれど、ここでは使用人にも美味しい料理を振る舞ってくれるのね)
紫野はそう思いつつ、仲間たちとお喋りを楽しみながら、その料理を堪能した。
夕食後、片付けを終えた使用人たちは、順番に風呂に入った。
紫野は先に入るよう勧められたが、「一番最後でいいです」と答えた。
この家では、使用人がいつでも汗を流せるよう、専用の小さな風呂が用意されていた。
皆が風呂を済ませた後、紫野はゆっくりと湯につかり、最後に風呂掃除を終えてから自室へ戻った。
その時、車の音が聞こえたので、彼女はそっと窓辺に近寄る。
カーテン越しに屋敷前のロータリーを覗くと、ちょうど国雄が車から降りるところだった。
(こんなに遅い帰りだなんて……ウメさんが心配するのも分かる気がするわ)
そう思いながらカーテンを閉めようとした瞬間、ふいに国雄が紫野の部屋の窓を見上げた。
その時、二人の視線が絡み合う。紫野は驚いて頬を真っ赤に染めながら軽く会釈をし、慌ててカーテンを閉めた。
(明日も早いから、もう寝なくては……)
そう思いながら、紫野は天蓋付きベッドに横たわった。
ドキドキと高鳴る心臓の鼓動をなんとか鎮めようと、必死に目を瞑る。その時、誰かが廊下を歩いている足音がした。
その足音は、紫野の部屋の前でぴたりと止まりノックの音が響いた。
驚いた紫野は、飛び起きて電気をつけた。
(国雄様?)
浴衣の胸元を手で押さえながら、紫野がおそるおそる扉を開けると、そこには穏やかな笑みを浮かべる国雄が立っていた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
「無事に我が家に落ち着いたようで安心しました。まだ起きているようだったので、これを渡そうと思い……」
国雄はそう言って、紫野に小さな箱を渡した。
反射的にそれを受け取った紫野は、きょとんとした表情を浮かべる。
「これは何でしょう?」
「東京土産です。では、おやすみなさい」
国雄はそう告げると、自室の方へ歩いていった。
紫野は扉を閉めると、すぐに小箱を開けてみた。
箱の中には、紫色の石がついた銀細工のかんざしが入っていた。
(まあ! なんて素敵なの!)
紫色の石は、おそらくアメシストだろう。アメシストを取り囲む繊細な銀細工はとても見事な作りで、和装にも洋装にも合う上品なデザインだった。
紫野は、国雄からの思いがけない贈り物に戸惑いながらも、胸に込み上げる嬉しさを抑えきれなかった。
あまりの嬉しさに、紫野はそのかんざしを、しばらくの間指先でそっとなぞり続けた。
コメント
74件
素敵な東京土産ですね😍紫野ちゃんの紫にかけての紫の宝石の付いた簪なんて😍これをさしてどの様なパーティに出かけるのかしら❓明日朝の国雄様と紫野ちゃんの会話も楽しみです😊ウメさんや他の使用人の方とも仲良くしている紫野ちゃん、このまま何もなく幸せになって欲しいな
気にかけてくれる気持ちはありがたいと心に染みてますよ紫野さんは😌
アメジストの簪✨✨紫野🟣ちゃんの名前にちなんだ石の色⁉️