テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
管野アリオ
1,048
瑠璃マリコ
4,205
#大人ロマンス
桃下結衣
478
彼女の甲高い声が耳に障る。
「……留守電を聞いたわ。重要な話って何?」
不快な笑いを手で振り払うように言った。災いの根源である彼女の姿を瞼に浮かべ、顔に怪訝な表情を刻む。
『そんなに急かさないでくださいよ。亜紀先生、私が姿を消した職場の居心地はいかがですか?』
「居心地って……何が言いたいの?」
『何が言いたいって、そのままの意味ですけど? 愛人は愛人らしく、せめて日の当たる職場からは姿を消して差し上げたのに。お気に召しませんでした?』
芝居めかしてそう言う彼女は、憎々しげな台詞の後にククッと喉を鳴らした。
その声で分かる。電話の向こう側にいる彼女は、さぞ涼しげな顔をしているに違いない。
自宅にまで押し掛けて、胎児の存在まで利用して妻の私を追い出そうとしたくせに……
「愛人は愛人らしく? ……何を今さら。あなたがいなくなった今でも、十分すぎるほど存在を感じるわ。友人を使って院内から私を追い出すつもり? あなたって娘は、一体どこまで……」
苦虫を噛み潰すように言って、語尾を濁らせる。
『言ってる意味が分かりません。亜紀先生、何の話をしているんですか?』
「何の話って――」
惚けるつもり!?
『明日の夜、時間を作ってください』
感情的になりかけた私の言葉を打ち消したのは、冷然とした彼女の声。
「……え? 明日の夜?」
『先生にぜひ、見ていただきたいものがあるんです』
「……何を?」
『そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。今度は赤ちゃんのエコー写真じゃありませんから』
彼女は澄ました口調で言って、携帯を握りしめる私を嘲笑うかのように高笑いする。
「……」
彼女の笑い声が、侵食するように脳内を巡る。
激しい動悸で胸が苦しい。
言い返す言葉を見つけられないまま、唇を噛んだ。
『明日は当直じゃありませんよね?』
「ええ、違うわ……」
『仕事が終わったらメールをください。その一時間後に待ち合わせましょう』
「ちょ、ちょっと! 私はあなたに会うなんて一言も――」
『場所は、伏見駅近くの【Alice】。覚えてますよね? 私がまだ新人だった頃に、先生が誘ってくれたカフェバーです』
「……もちろん、覚えてる」
『私、待ってますから』
彼の温もりが消え去った静寂の中に、氷を張るような彼女の声が染み渡ってくる。
「私は行かない! あなたの顔なんて二度と見たくない!」
『……そうですか。でも、もし遼一さんとの離婚を考えているなら、私と話をした方が亜紀先生のためですよ?』
「……どういう意味?」
『それは電話では言えません。もし私の予想が的中しているのなら、私は先生の敵ではありません。むしろ、私は先生の味方ですよ』
私の味方!?
不可解な言葉が次々と頭に流れ込む。
一体何を企んでいるの?
今度は私に、何をしようというの!
言葉を詰まらせた私は大きく目を見開き、必死に彼女が放った言葉の意味を探る。
『今度は誰の邪魔も入りません。先生にお会いできるのを楽しみにしてますから。それじゃ、』
私の隠せない動揺を弄ぶかのように、彼女の粘つく声が耳にねじ込まれる。
「まっ、待って!」
『おやすみなさい、亜紀センセ』
「楓ちゃ――……」
愕然とする私の耳に流れてくるのは、通話が切断されたことを告げる空虚な話中音。
……明日、あの娘と二人で――
心臓がバクバクと音を立てる。
私は手のひらに乗せた携帯電話を見つめ、乾いた喉に生唾を落とした。
――翌日。
仕事を終えた私は東山線に乗り、中区錦二丁目にある伏見駅の5番出口から地上へ向かう。
名古屋の中枢機能を担う名古屋駅と、最大の繁華街である栄駅の間に位置するこの街は、オフィス街と呼ばれ、終始賑わいを見せている。
絶えることなく行き交う人々の流れ。
階段を上がり切った私は、その人混みの中に重苦しいため息を落とし、日暮れとともに熱を解放していくアスファルトに足を着けた。
浮かぬ顔で私が向かうのは、とあるビルの中にあるお洒落なカフェバー。
私が彼女を迷いなく『友達』と呼んでいた頃、二回ほど二人で食事をした店だ。
外観はモルタル塗りの真っ白な壁で、赤い窓枠と扉の前に飾られたハーブがスタイリッシュな雰囲気を醸し出している。
この店に足を踏み入れるのは三年ぶりくらいだろうか……確か、最後に訪れたのも彼女と一緒だった。
その時、既に彼女は夫に想いを寄せ、私と親しい関係を築きながらも奪うチャンスを狙っていた。そう思うたび、あの頃の自分が哀れに思えて仕方ない。
過去の滑稽な自分にため息をつき、ダークブラウンの木調の扉を開けて店内へ入った。
広いとは言えない店内ながらも、ゆったりとしたソファー席と照明を抑えたクラシックな雰囲気は、ちょっとした高級感を漂わせている。
ウェイターに案内される私は、アンティークな空気に引きずられるような足取りで奥へと進む。
否応なしに視界に入り込んできたのは、ソファーにゆったりと座り、読書をする楓の姿。
胸元にフリルの付いた純白のブラウスが、控えめなライトの光に照らされている。その清楚な装いが今の彼女には不似合いに思えて、不快さえ感じる。
近づいていく私に気づかないのか、文庫本に視線を落としたまま動かない彼女。
たどり着いたテーブルの斜め前に立ち、口を閉ざしたまま彼女を見据えた。
その直後、
「……あ。亜紀先生、お疲れ様です。思ったより早い到着でしたね」
黒とピンクのチェック柄のスカートの上にゆっくりと本を下ろした彼女は、口の端を引き上げ、にっこりと笑った。
コメント
1件
うわあ、今回も重くて苦しい……電話口での楓さんの「私、待ってますから」って台詞、ぞわっとした。あの冷静で余裕のある口調が逆に怖い。それでいて「味方ですよ」って言うから、何が本当なのか分かんなくなる。行きつけだったカフェバーに呼び出すのも、計算尽くって感じがしてゾクゾクする。亜紀先生の動揺がすごく伝わってきて、読んでるこっちまで息苦しくなったよ……次が気になる!