蕎麦を食べながら、今度は信也がスマホについての話を始めた。
「とにかく、向こうは凪子と直接話したいと思ってなんとか凪子と連絡を取ろうとしてくるはずだ。そう言えばスマホはそのま
ま使うの?」
「うん、実は今それを悩んでる。着信拒否にするか番号自体を変えるか…」
「着拒否だと恨みを買いそうだから、いっそのこと番号を変えたら?」
「やっぱりそう思う? 分かった、すぐに変えるわ」
「いつ?」
「来週、会社の帰りにでもお店に寄って来る」
「それじゃあ遅いよ。だって内容証明は今日届くんだろう? きっとすぐにかけて来るぞ」
「それは困るわ! スマホにアイツの名前が表示されるだけで吐き気がしそう」
凪子は顔をしかめて言った。
「じゃあ蕎麦を食べたらすぐに番号を変えに行くか! ショップは大通り沿いにあるからすぐだし」
「信也も一緒に行ってくれるの? わーい、やったぁ!」
「こらこら、遊びじゃないんだぞ! 俺は凪子の安全の為を思って言ってるんだからな」
「わかってるわよ」
凪子が拗ねたように言う。
「とにかく今後は会社を出る時、電車へ乗る時、駅にいる時…その都度後ろを振り返る癖をつけろよ。帰宅時に後をつけられた
ら、居場所なんてすぐにバレちまうからな。もしつけられたら相手の写真を撮るんだ、証拠にな。もし撮れなかったとしても日
付と時間だけは記録して弁護士へ伝えろよ。何か困った事があったらいつでも連絡しろよ。わかったな?」
「う…うん……なんだかドラマみたいな展開になってる?」
「ドラマなら作り物だからトラブルは起きないけれど、これはリアルなんだ。そこのところを忘れないように」
「…………」
凪子は改めて事の重大さに気付く。
離婚を通達しただけで、そんな大袈裟な事になるのだろうか?
相手は他に女を作った男だ。妻への未練などないはずだ。
「わかった、気をつけるわ。でもね、夫は私に興味がないから愛人を作ったのよ。だから私に執着なんてしないと思うけどな
ぁ。今朝なんて家を出る時に私と目も合わせなかったんだから」
凪子は今朝の玄関での様子を思い浮かべる。
「男って言うのはな、逃げる女は追いたくなるもんなんだよ。特にプライドの高い奴ほどその傾向が強い」
その時信也はあの日病院で会った時の良輔の態度を思い出していた。
良輔は凪子に近づく男を疎ましがっていた。
そして凪子は自分のものだと信也に主張した。
ああいう所有欲の強い男ほど危険だと信也は思っていた。
プライドが高い男ほどストーカーまがいの事を起こしやすい。
しかし、あえてその事には触れずに続けた。
「妻が一方的に姿をくらまし、その日の夜に突然離婚の申し立てをしてきたら、普通の男だって驚くだろう? ましてやプライ
ドが高い男だったら余計にだぞ! だから俺は念を押して気をつけろと言ってるんだ!」
「確かに良輔はプライドが高いけれど、でもまさかそこまではしないでしょう?」
凪子は可笑しそうに笑う。
「凪子はそこが甘いんだよ。何かあってからじゃ遅いんだ」
信也があまりにも真剣な表情で言ったので、凪子は一瞬ドキッとした。
そしてそのただならなぬ雰囲気に負け、素直に、
「分かりました、気をつけます」
と言って信也を安心させた。
「ま、やっと自由を手にした女への説教はこのくらいにしといてやるか!」
信也は言いたい事を全て凪子に伝えて満足したのか、蕎麦を食べ終わるとそば茶を美味しそう飲んだ。
凪子は慌てて残りの蕎麦を食べ始める。
その後二人は蕎麦屋を出た。
「ご馳走様、美味しかったわ! これで新生活のいいスタートが切れそう」
「ん、それならよかった」
そして信也はマンションへ向かおうとする凪子の腕を掴むと言った。
「次はコッチ!」
信也は大通りの方へ歩き始める。
「あ、そっか! 携帯ね」
「ん! 素直でよろし」
それから二人は携帯電話会社へ行き番号の変更を無事に済ませた。
そして漸くマンションへ向かう。
その途中、大通り沿いに素敵な雰囲気のフローリストがあるのが見えた。
ビンテージ風の店構えのその店は、花以外にも雑貨なども置いているようだ。
「こんな素敵なお花屋さんもあるのね!」
凪子はうっとりした様子で、そのセンスの良いフローリストを覗く。
すると信也が店に入って行った。
「ちょっとどうしたの?」
凪子は慌てて信也の後を追う。
店に入ると20代の可愛らしい女性店員がいた。
女性は二人に気付くと、
「いらっしゃいませ」
とにこやかに声をかける。
信也は「どうも」と言ってから店内をぐるりと見回すと、
お目当てのものを見つけて女性店員に告げた。
「すみません、そのミニヒマワリを31本下さい」
「ありがとうございます。今ご用意いたしますので少々お待ち下さい」
女性は早速ひまわりを選び始める。
「えっ? ちょ、ちょっと、お花なんかどうするの?」
「引っ越し祝いだよ。凪子はひまわり好きだろう? そういや、昔ひまわりを贈った時はお礼の一言も言われなかったなぁ…」
信也はそう言ってニヤッと笑う。
「えっ? 前って? えっ、いつ? 私、そんなの貰った覚えはないわよ?」
「忘れたのか? 昔一度贈ったぞ!」
「えっ? いつ? 私ひまわり大好きだから、もらったら絶対に忘れるはずないわ!」
真面目な顔で訴える凪子の顔を見て、信也はハッとする。
(まさか…アイツ……)
「えっ? 信也! それっていつ? いつ私にくれたの?」
「凪子が交通事故にあった日だ。あの時病院へすぐに駆け付けたら、お前の旦那がいたから病室には行かずに手渡したんだ」
「えっ? 嘘っ! 私そんな話全然聞いていないわ!」
凪子が急にうろたえ始める。
(やっぱりな……)
信也は心の中で呟くと、凪子に言った。
「俺はお前が事故にあったと聞いてすぐに駆け付けたんだ。その時確かにアイツに渡した! 一つ聞くけど、あの時凪子はもう
アイツと付き合っていたんだろう?」
「ううん…あの時はまだ付き合っていなかったわ! 付き合い始めたのはあの後数ヶ月経ってからだから…」
(やっぱりそうか! 俺はすっかり騙されてたって訳か!)
思わず信也は苦笑いをする。
「信也はあの日病院に来てくれたの? 全然知らなかったわ」
「ああ…あの日俺は仕事をキャンセルして病院へ行ったんだ。で、ナースステーションで面会の申し込みをしている時にアイツ
が来て言ったんだよ。自分は凪子と付き合ってるから、今後凪子の面倒は自分がみるって! そう言われたら引き下がるしかな
いだろう? だから花束を渡してくれって頼んで帰ったんだ」
信也の話を聞いてさらに凪子がうろたえる。
「えっ? 私、信也が来た事は聞いていないし、お花も貰っていないわ! どうして? なぜ良輔は私に言わなかったの?」
凪子は動転していた。
実は事故にあったあの日、凪子は信也がお見舞いに来てくれなかった事にショックを受けていた。
だかあの時信也が来ていたと聞きショックを隠し切れない。
当時凪子は、信也と仕事を組んでいたので頻繁に連絡を取り合っていた。
そして仕事だけじゃなく、私生活でも既に友人としての付き合いを始めていた。
凪子は、あの時信也が心配して見舞いに来てくれるだろうと思っていた。
しかし信也は来なかった。
当時、凪子は信也に対し甘い恋心を抱いていたので、その事はかなりショックだった。
てっきり友人として見舞いに来てくれると思っていたからだ。
その事があって、凪子はそれ以後信也に対しての恋心を封印した。
(世界へ羽ばたこうとしている有名デザイナーが、アパレル会社の一社員なんかを相手にするわけないわよね……)
当時信也は、有名女優や取引先企業の令嬢との噂が、ひっきりなしに報道されていた。
だから余計に凪子はそう思った。
その数ヶ月後、凪子はしつこくアタックしてきていた良輔と付き合ってみる事にした。
見込みのない相手を思い続けるよりも、その方が楽だと思ったからだ。
しかし信也はあの時、仕事をキャンセルしてまで凪子に会いに来てくれたと言った。
それを知った凪子の心は、かなり動揺していた。
それと同時に、良輔に対する激しい怒りを覚える。
一方、信也も凪子の話を聞き、心の底から後悔していた。
なぜ自分は無理やりにでも凪子の病室へ会いに行かなかったのか?
なぜあの男の言う事を信じてしまったのか?
今頃になって強い後悔の念が押し寄せて来る。
(朝倉良輔、覚えておけよ! 俺はもう決して遠慮なんかしないからな)
信也はこの時、はっきりと自分の気持ちに気付く事が出来た。
それは信也にとって、この先の明確な方向性を示すものでもあった。
その時、花束が出来上がったので、信也は凪子へ花束を渡す。
「ありがとう」
凪子はその花束を受け取ると、両手で嬉しそうに抱えた。
コメント
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お互い知り得なかった事実を知って愕然🙅平気で嘘をつける良輔にしてやられたね🤬💢 この怒りをバネに徹底的に良輔と絵里奈をたたきのめそう‼️