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女性は戸をもう少し開けた。
「上がって、とは言えないけど……そこじゃ話しにくいわね」
啓介は玄関脇の小さな縁台へ案内された。少し遅れて芽生と莉々夏も合流し、三人で並んで座る。無理に人数を増やさなかったのは、啓介なりの精いっぱいの気遣いだった。
女性はしばらく海のほうを見ていた。
それから、自分で言葉を選ぶようにゆっくり口を開く。
「私の名前は、澄江」
莉々夏が息をのむ。
帳面の赤丸の横にあった名前と同じだった。
「子どものころ、水が町に入った年に、海鳴り寺の離れにいたの」
澄江は自分の膝の上で手を組んだ。
「数日だけ。親戚に引き取られるまでの、短いあいだ」
芽生が静かに聞く。
「赤いリボンは、その時のものですか」
澄江は目を閉じ、かすかに頷いた。
「髪が邪魔でしょう、って結んでもらったの。泣いてばかりいた私に、“帰る時まで預かっててあげる”って」
啓介の喉が詰まる。
その言い方が、母のしそうな言い方に聞こえた。
「でも」
澄江はそこで声を切った。
「帰る時、私はそれを持って帰れなかった」
海のほうから鈍い汽笛が聞こえる。
それが、昔の時間まで引っぱってくるみたいだった。
「離れを出たあと、町からも離れたの。親戚の家へ行って、そのまま大人になった」
「じゃあ、どうして今……」
莉々夏が言いかけて、すぐに口をつぐむ。
澄江は責めなかった。
「昼だけ、寺の縁側に座るようになったのは最近よ。中までは入れなかったけど」
啓介は、縁側で泣いて帰った背中を思い出した。
澄江は小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。
「帰る印だったのにね。あのリボン。私は、あの日からずっと、帰れなかった」
その一言は、春の光の中に落ちたのに、冬みたいに冷たかった。
#海辺の町