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#海辺の町
澄江の家の前には、しばらく波の音しかなかった。
啓介は急かさなかった。芽生も、何かを書き留めるふりをせず、ただ聞くことに徹していた。
「沈船の事故があったでしょう」
澄江がぽつりと言う。
「昔、みんな海賊船なんて笑って言い換えてた船」
啓介たちは黙って頷く。
「本当は、あの日、助からなかった人たちがいた。助かった人もいた。私は後ろのほうにいて、たまたま先に降ろされた」
澄江の声は静かだったが、その静けさがかえって重かった。
「子どもだったから、誰も私を責めなかった。でも、誰も責めないまま終わると、自分で自分を責めるようになるのね」
芽生の指先が膝の上でぎゅっと結ばれる。
「離れにいた数日、あそこは優しかった。ごはんが出て、布団があって、黙ってても追い出されない。でも、優しい場所ほど、戻るのが怖くなる時があるの」
莉々夏が目元を押さえた。
「行ったら、全部思い出しちゃうから……?」
「ええ。自分だけ、生き延びたみたいな顔をしてた日も。泣けなかった日も」
啓介は胸の奥が痛んだ。
責められていないのに、自分で罰し続ける苦しさは、形は違っても少しだけ分かる気がした。
「でも、来られなかったってことは」
啓介は言葉を選ぶ。
「来たい気持ちが、なくなったわけじゃないですよね」
澄江は驚いたように顔を上げた。
「俺たち、離れを残したいんです。建物としてだけじゃなくて、今も、誰かが来てもいい場所として」
啓介はまっすぐ続けた。
「だから……来られなかった年数も、ここに置いていってください」
澄江の目が揺れる。
涙が落ちる寸前で、彼女は何度も瞬いた。
芽生は何も足さなかった。その沈黙が、啓介の言葉をそのまま届かせた。
澄江はやがて、小さく頷いた。
長い長い遠回りの末に、やっと、首が一度だけ前へ動いた。