テラーノベル
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放課後の教室。日下部は委員会で不在。
「──おい、ちょっと。そこの掃除、まだだろ」
いつもよりも声が軽いのに、内容は重たかった。
遥は、モップを手に立ち尽くしていた。
教室の端、黒板の下あたりにだけ、わざと汚されたように水が撒かれている。
誰の仕業かは、見なくてもわかる。
「で? 拭くの? 濡れたままで気持ちいいって顔じゃない?」
声の主は女子だった。
その後ろに、数人の男子。
机の上に座って、菓子を食いながら見ている。
「あれ、今日は“あいつ”いないんだ?」
「あ〜、やっぱそういう日ってテンション上がるよね、遥くん的には?」
「だってさ、あいつが見てるとさすがに“おとなしめ”にしてたもんね〜?」
遥は、何も言わない。
視線を伏せて、静かにモップをかけようとする。
「じゃあ、今日はそのぶん、思い出させてあげよっか?」
そう言って、女子が机の脚を蹴った。
隣の机がずれ、モップの柄が足に引っかかって倒れた。
「──あっ、こけた」
「大丈夫? いや〜、そういうのちょっと好きかも〜」
「“ごめんなさい”って、昔すぐ言ってたよね? 言えばいいのに、今も」
誰かが言った。
「てかさ、もうちょい“それっぽい”服着てくれたら、盛り上がるんだけどな〜」
「てか、昨日の“下着の切れ端”、あれお前のだったんじゃない?」
「えっちじゃん……遥って案外、自分から誘うタイプなんじゃね?」
笑いが混じる。
重ねて、男子の一人が言う。
「てか、“あいつ”と一緒にいた夜、何してたわけ?」
「日下部のほうが押したの? それとも、こいつが“開いた”の?」
「ねぇ、ぶっちゃけ──どっちの“穴”だった?」
──遥は動かない。
動けないのではない。
動いたら、もっと“地獄”になると知っているからだ。
でも、それでも。
誰かの手が、後ろから制服の裾をつまむ。
背中をなぞるように撫でて、肩を押し下げる。
「──ほら、また声出さない。やっぱそっちの子だったんじゃん」
「黙ってれば可愛いって、言われたことある?」
「やば、なんか……ほんとに反応してんじゃない?」
(違う、違う、そんなのじゃない──)
遥の中で、何かがこすれる音がした。
頭が真っ白になるわけじゃない。
むしろ、はっきりと見える。
この空気は、日下部がいないときにだけ作られる。
自分が何も言わなければ、日下部の耳にも届かない。
(──それでいい)
そう思った。
(おれが、黙ってれば──あいつは巻き込まれない)
けれどその瞬間、笑いながら顔を寄せてきた女子が言った。
「ねぇ。日下部がいないと、素直だよね?」
「やっぱ、あいつの前じゃ“演技”してんの?」
「ほんとはさ、いじめられて喜んでるんでしょ? 前も言ってたよね、そういう子ってさ──依存先、選ぶんだって」
遥の喉の奥が、ぴくりと痙攣した。
(そうだ。前にも──そう言われた)
(“選んでるのは自分”、って──)
誰かが後ろから囁く。
「なあ、どうやって泣かせたらいいか、教えて?」
「前、泣いてた時、“日下部”呼んでたよね。あれもう一回やってよ。ね?」
遥の耳が、遠くなっていく。
(やめろ。やめてくれ。そうじゃない──)
(誰の名前も、呼びたくない)
(おれのせいで、また──)
──そのとき。
蓮司が、教室の入り口に立っていた。
「おーい、もうすぐ先生来るってば。そこ、ほどほどにしとけよ?」
飄々とした声。
でも、誰も“怒られてる”とは感じない。
蓮司は遥を一瞥する。
何も言わない。ただ、一歩だけ、教室に入る。
「ねえ。こいつ、“悪くない顔”してんじゃん?」
そう言って笑った。
そして、その一言で、教室の空気はまた形を変えた。
──いじめは、止まらない。
むしろ、「楽しいもの」として、また“始まってしまった”。
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