テラーノベル
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魔界に落ちてから、何日経ったのか分からない。太陽が沈まないのだから。
落下の衝撃で腕時計は壊れてしまった。針は同じ場所で止まったままだ。
そもそも、もし壊れていなかったとしても、この世界で“もとの世界の24時間”を正確に刻むとは限らない。
ただ、眠気だけは定期的にやってくる。
眠って、起きて、また眠る。
その繰り返しを、とりあえず“1日”として数えることにした。
「これで合ってるのかな……」
声に出したのは、誰かに聞かせたいわけじゃない。
誰とも話していない時間が長すぎて、黙っているのが逆にしんどくなるから。
少しでも声を出すと、胸の奥が落ち着く。
そんなわけで、数え始めてから“私基準の10日目の朝”を迎えた。
今日から、私は記録をつけることにした。
そのために、リュックの底に入れっぱなしだったノートを取り出す。
普段なら、こういうのは全部スマホにメモする。
でも、この世界でどれだけ生きることになるのか分からないから、バッテリーはできるだけ温存しておきたい。
今は電源を切っている。
スマホを手に取った瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
「真帆、千夏……ごめん……」
二人に誕生日にもらったスマホケース。
傷だらけになっても、まだそこにある。
私はそっとスマホをしまい、ノートを膝の上に置いた。
「続けられるのかな、私……」
三日坊主の自覚があるからこそ、声に出すと少しだけ笑えて、少しだけ落ち着いた。
誰もいないのに、誰かと話したくて、自分の声を確かめるように。
ページを開いた瞬間、授業中に描いた“意味のない落書き”が目に入った。
その線の雑さだけで、学校の空気がふっと蘇る。
「……あーこんなの描いたな。」
私はペンを握り、今日の記録を書き始める。
まずは、これまでに遭遇した魔物の特徴を簡単にまとめる。
レベル3のやつは、牙がやたら長い。
犬に似ていて口の端から長い牙が常に露出している。
跳ねるやつは、体じゅうの毛がふわふわしている。
白い毛が光を反射して、やたら目立つ。
一つ目のやつは、ひび割れた皮膚の隙間から黒い煙が漏れていて、目がぬめっとしている。
「意外と覚えてるな、私……」
怖いものほど、勝手に記憶に焼きつく。
ついでに名前もつけてみた。
牙のやつは「きば」
跳ねるやつは「もふもふ」
一つ目のやつは「一つ目」
「ほぼ、そのままで笑っちゃう。」
「ネーミングセンス……ないね。」
でも、名前をつけると“分からなさ”が少し薄れる。
この世界では、分からないものが一番怖い。
それから、赤い光のこと。
あれは何なのか、詳しくは分からない。
分かっているのは、食べても死なないこと。
そして、優しい甘さがあることだ。
赤い光の中心には、白い芯のようなものがある。
光の部分は食べられるのに、白い芯だけはどうしても食べられない。
魔物も白い芯は食べない。
そして、レベルの存在。
魔物にもレベルがあって、私にもある。
赤い光とレベルは、たぶん無関係じゃない。
一度だけ、赤い光を食べた魔物のレベル表示が“1つ”上がる瞬間を見た。
あれは見間違いじゃない。
赤い光を食べると、レベルが上がるようだ。
でも、私は今もレベル0だ。
残り物とは言え、赤い光を食べたのに。
これは、たぶん、重要だ。
ノートに書きながら、私は一番気になっていることをページの中央に大きく書いた。
──今のところ、魔物が襲ってこない。
これは偶然ではない。
これまでの出来事を思い返しても、魔物たちは私を“見ていない”。
視界に入っているはずなのに、まるで透明人間みたいに扱われている。
理由は、今のところ二つ考えられる。
ひとつは、私が魔物に認識されていない可能性。
レベル0だから、存在そのものが“対象外”になっているという仮説。
もうひとつは、そもそも魔物は人間を襲わないという可能性。
この世界のルールが、私の知っている“魔物”とは違うのかもしれない。
どちらが正しいのかは分からない。
しばらく考えた。
どちらの可能性もありそうで、どちらも決め手に欠ける。
でも、この違いは、この先の生き残りに関わる。
曖昧なまま進むわけにはいかない。
怖いし、できれば避けたい。
けれど、答えを知らないまま動くほうが、もっと危ない。
結局、確かめる方法はひとつしかない。
魔物に、あえて近づくしかない。
「……仕方ないな〜……」
あえて軽く言ってみた。
そうでもしないと、足がすくんで動けなくなりそうだった。
私はノートを閉じ、深呼吸をした。
この世界の空気は、少し鉄っぽい匂いがする。
それが緊張のせいなのか、世界の仕様なのかは分からない。
少し歩くと、岩場の向こうにもふもふが見えた。
一匹いる、レベル4だ。
その周囲には、レベル2のもふもふが五匹、少し距離を置いて跳ねている。
幸いにも、まだそんなにレベルアップしていない個体ばかりだ。
試すなら、今が一番安全かもしれない。
それぞれが勝手に跳ねたり、毛を震わせたりしていて、群れというより“同じ場所に集まっているだけ”に見える。
それに、同じ種族同士では争わないようだ。
今のところは、だけど。
私は、そっと近づいた。
「……どうせ襲ってこないんでしょ?」
自分に言い聞かせるみたいに軽くつぶやく。
でも、足はガクガク震えていた。
距離が十メートル、五メートル、三メートルと縮まる。
心臓がうるさい。魔物に聞こえるんじゃないかと思うほど。
そのとき、一匹のもふもふがこちらを向いた。
六つの目が、一斉に私を見る。
「……えっ、見えてる?」
……いや、違う。
たまたまこちらを見ただけだ……脅かすなよ……。
私は息を整え、もふもふの輪の中心に立った。
膝が少し震えた。
もふもふたちに大きな変化はない。
ただ、何度も脚にぶつかってきた。
寄ってきているのではない。
見えていないのだ。
私はゆっくりと息を吐いた。
そして、確信した。
──この仮説は、ほぼ間違っていない。
レベル0の私は、魔物に“存在はしているのに、認識されていない”。
言わば見えない障害物なんだ。
その事実に、ほんの少しだけ気が緩んだ。
「……触っても、気づかれない……よね?」
自分でも分かるくらい、声が軽かった。
恐怖と安堵が混ざった、変なテンション。
私はそっと、目の前のもふもふに手を伸ばした。
白い毛は光を反射して、ふわふわしていて、まるで綿菓子みたいに柔らかそうだった。
指先が、毛先に触れた。
その瞬間だった。
もふもふの白い毛が、一気に黒く変色し、バチッと音を立てて逆立った。
「……えっ?」
まるでハリネズミ。
いや、それ以上に鋭い。
毛というより、黒い針。
次の瞬間、もふもふが跳ねた。
反射的に、後ろ足が振り上がる。
ドンッ。
強靭な後ろ足が、私の腹を正確に蹴り抜いた。
息が、全部、外に押し出された。
視界がぐにゃりと歪む。
身体が宙に浮いた。
数メートル、飛んだ。
地面に叩きつけられた衝撃で、頭の中が真っ白になった。
「……っ……あ……」
声にならない声が漏れた。
痛いのか、苦しいのか、よく分からない。
ただ、意識が遠のいていく。
──うかつだった。
──触るなんて、馬鹿みたい。
──死ぬ……かも。
ぼやけた視界の端で、もふもふの黒い針がゆっくりと白に戻っていくのが見えた。
ああ、そうか。
認識されていないだけで、“触れたら反応される”
当たり前だ。
そんな当たり前のことに、気づけなかった。
意識が、すうっと沈んでいった。
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