優弥は大通りまで行くとタクシーを拾った。
「え? 移動するんですか?」
「この辺りでウロウロしてバッタリ鉢合わせしたらマズいだろう?」
「確かに……」
杏樹は納得する。
タクシーに乗ると優弥は運転手に行き先を告げた。
「目黒駅までお願いします」
「承知しました」
二人を乗せたタクシーが走り出す。
「目黒へ行くんですか?」
「うん。君は食べ物特に好き嫌いはないだろう?」
「あ、はい」
優弥は既に杏樹の食の好みをリサーチ済みだった。
杏樹が好き嫌いがない事は食堂の朝子か聞いている。もちろん朝子にダイレクトに聞いた訳ではなく最初は他愛もない世間話から入り会話を巧みに誘導しながら聞き出していったのだ。
そこで杏樹が聞いた。
「森田さんはなぜあそこにいたんでしょうか?」
今杏樹は同じマンションに住む優弥の事を『同志』のように感じていた。
正輝が突然現れるという予想もしない事態が起きたので余計にそう思えるのかもしれない。
しかし優弥の事を同志と思う一方で、逆に1年以上付き合った正輝の事が赤の他人のように思えてきた。
正輝については色々知っているはずなのに今は彼が何を考えているのか全くわからない。
そこで優弥が答えた。
「俺にもさっぱりわからないよ」
優弥も頭をひねっている。
「でも、副支店長っていつもいいタイミングで現れますよね。食堂の時もかなり助かりましたし」
「そうだな、ただの偶然なのにな」
「もしかして私にGPSでもつけてます?」
杏樹がふざけて言うと優弥は微笑みながら言った。
「つけていいならつけたいよ」
「えっ?」
「君は危なっかしいからちゃんと見張っていないと心配だ」
(え? それってどういう意味?)
途端に杏樹の心臓が高鳴る。
しかしあまり深く考えると余計に混乱しそうなので杏樹はそこで考える事をやめた。
目黒駅へ到着すると二人はタクシーを降り優弥が知っている店へと向かった。
この時間の交差点や歩道はかなり混雑している。
「創作イタリアンの店でいい?」
「あ、はい」
ファミレスでいいのにと思いながら杏樹は素直について行く。2~3分歩くと目の前にモダンなビルが現れた。
ビルのエレベーターへ乗ると優弥は3階のボタンを押す。エレベーターを降りてすぐ店の入口があった。辺りには美味しそうな匂いが漂っている。
二人が店へ入るとすぐにスタッフが笑顔で出迎えてくれた。
「お二人様ですね。どうぞ、窓際のお席が空いております」
「ありがとう」
二人は窓際の席へ向かった。
コンクリート打ちっぱなしのモダンな外観からは想像出来ないほど店内はとても可愛らしい雰囲気だ。
深みのあるブラウンの古材を使った床にレモンイエローの漆喰壁、テーブルにはパステルブルーと白のギンガムチェックのクロスがかけられている。
席に着くと優弥はメニューを開いて杏樹に見せてくれた。
「好き嫌いがないなら本日のコースにしよう。デザートもついているし」
「あ、はい」
「ワインは?」
「明日はまだ仕事があるからやめておきます」
「週末しか飲まないタイプか…でもグラスワイン一杯くらいならいいだろう?」
「それくらいなら……」
優弥は手を挙げると料理とワインを注文した。
店のスタッフが立ち去ると優弥はテーブルの上で手を組んだまま言った。
「それにしても森田はなんであそこにいたんだ?」
「謎です。私本当に新住所は教えていませんし引越した事も言っていません。あ、でも…」
「ん?」
「いえ、この前彼と食堂で話した時彼は私が引っ越した事を知っていたんです。私の引越しを知っているのは美奈子先輩と庶務の沙織さん、あ、あとは口座の住所変更を頼んだ預金係のパートさんくらいです。ただ沙織さんに住所変更届を持って行った時に得意先課の人が近くにいたからもしかしたら聞いていたかも?」
「新しい住所については端末で調べたっていう可能性もあるよな。まあ個人的な件でオペレーションするのは禁止されているけどな」
「端末でのオペレーションは日時と社員コードが記録されますよね? もし個人的な事で使った事がバレたら罰せられるし…」
「だな。森田は本部行きを狙っているみたいだからそこまで馬鹿な真似はしないだろうなぁ」
「じゃあどうやって住所を知ったんだろう?」
二人で色々話し合ってみたが正輝がなぜあのマンションへ辿り着いたかのかはわからなかった。
そこで優弥が杏樹に聞いた。
「森田の新しい相手というのは早乙女家具の社長令嬢だろう?」
「はい……え、でもなんでそれを?」
「あの夜君が言ってたからさ。恋人が取引先の令嬢に心変わりしたって」
「あっ……」
杏樹はあの夜かなり酔っていたので自分がどこまで話したかを覚えていない。
結構細かい事まで話していたのを知り愕然とする。
「すみません、酔った勢いで色々とぶちまけていたようで」
「どうって事ないさ」
その時グラスワインが来たので二人は乾杯をした。
「お疲れ様です」
「お疲れさん」
ワインは少し辛口で美味しい。
「で、この後はどうするかなー」
「?」
「あいつはしつこそうだから夜中まで張り込むかもしれないぞ?」
「なんでしつこいってわかったのですか?」
優弥が正輝の性格をずばり言い当てたので杏樹は驚く。
「そのくらい見ていればわかるさ。それより今日はとりあえずホテルにでも泊まるか」
「ハッ?」
「今夜は一時的にホテルへ避難だ。もし今夜俺達が同じマンションへ帰る所を見られでもしたらそれこそ変な噂を流しかねないだろう?」
「え、でもだからってわざわざホテルに行かなくても……」
杏樹は優弥の突拍子もないアイディアに反論した。
「今夜一晩だ。明日は俺がなんとかするから」
「なんとかって?」
「実は銀行の一部の人間は俺と君の家が隣同士だっていう事を既に知っているんだよ。もちろん偶然隣になったって事もね。ただ変な騒ぎになったら困るのであえて黙っているようにと指示している。それを明日公にするだけだ、簡単だろう?」
杏樹はなるほどと納得する。どうりで杏樹が沙織に住所変更の書類を出した時何も言われなかった訳だ。庶務の沙織は優弥の住所も知っているので杏樹の新住所を見て絶対に気付くはずだ。しかし杏樹は特に何も言われていない。
こういう時守秘義務をきちんと守る行員の口は堅い。例え銀行内の事についてもだ。
「そうだったんですね。だったら今日は普通に帰っても平気なのでは?」
「いや、それは駄目だ。どうも森田は俺の事を嫌っているみたいなんだよなー。おそらく早乙女家具の社長令嬢の件で注意をしたからだろうな。皆に話をする前にあいつに見られて変な誤解を生むのもマズい。だから今夜一泊ホテルで我慢してくれないか?」
優弥が言っている事はわからなくもない。しかし杏樹はその一泊のホテル代を支払う事が痛かった。引越しの出費に続き先日は高価な絵画まで買ってしまった。出来れば無駄な出費はせずにこのまま自宅へ帰りたかった。
「そうしたいのはやまやまなんですが……」
「宿泊代は俺が払うから安心しろ」
その言葉に杏樹は驚く。
「いえ、まさかっ、副支店長にそこまでお世話になる訳にはいきません」
「いいから心配するな。これは上司からの命令だ」
「えっ、でも……」
命令と言われると何も言い返せない。
「一泊だけだから気にするな」
そうまで言われるともう断るのも申し訳ないような気がした。
「わかりました。私のせいで…本当にすみません」
杏樹は恐縮して頭を下げる。
何の関係もない優弥を巻き込んでしまった事に杏樹は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
その時美味しそうな前菜の盛り合わせが運ばれてきたので二人は食事を始めた。
美味しいイタリアンに舌鼓を打ちながら二人は職場の事や今住んでいるマンションの話で盛り上がる。
「地下のジムとプールには行ってみたか?」
「まだ行ってません。副支店長は?」
「この前の日曜日に行ってみたよ。結構空いていて良かったぞ」
「そうですか? じゃあ私も今度行ってみようかな?」
その後は近くの店やスーパーなど地元話に花が咲く。
会話を楽しみながら杏樹は自分がかなりリラックスしている事に気付いた。
(あれ? 今目の前にいるのは上司なのになんで私はリラックスしているの?)
杏樹は不思議に思いながらも、ちょうど運ばれてきたデザートを見た杏樹の意識はすぐにその甘いスイーツへと向かった。